覚者に会ってきました

 知人を介して覚者に会ってきた。以下Aさんとする。
 予想通りAさんは見た目は全く普通の人で、坊主頭に糞掃衣を着ていたりするわけではなかった。
 けれどそんなのは今までの経験からわかっていたし、その点については全く驚きはなかった。
 インドでは覚者のことを生前死者とも言う。生きたまま死んだ者という意味だが早い話がゾンビみたいなものだと思えばいい。
 映画の中ではゾンビと人間の見分けは簡単に付くけれども、現実には誰がゾンビで誰が人間かの区別を付けるのは中々難しい。というか見ただけではわからない。
 視覚系の超能力があれば見分けも付くかも知れないが、生憎と私はそっちの方はてんで駄目なのである。
 そこで人間なのかゾンビなのかを確認するために話をすることになる。
 そして、いざ話をしてみれば一撃で普通でないことが判るのが覚者というものなのだ。
 まず大まかに言って覚者には2通りの人間がいる。
 一つは覚醒したことを吹聴したりせず、その人なりの個性のあり方に従って残りの人生を超然として過ごすタイプ。
 もう一つは獲得した内容を他の人々に伝えようとして活動するタイプ。
 ラジニーシに寄れば大体前者が9、後者が1くらいの割合になるらしい。つまりブッダやイエスは変わり者の覚者ということになる。
 私が今回会ったAさんも前者のタイプで、人に教えを垂れようとかそういう事は微塵も考えていない人だった。ごく僅かの人だけがその内容というか報告を耳にすることが出来るわけで、その意味で私は運が好いという事になると思う。
 いくつかのことを話したが、だらだら話した事もあり上手くまとめるのが難しい。
 そこで特に印象深かったことについて書くことにする。
 自分でも整理したいし、ひょっとすると引き寄せ系とかやっている人の役に立つかも知れないから。
 書いて良いかどうか本人にも聞いたけれど「どうぞ。どのみち好きに解釈される」との事だった。
 私もそう思う。しかしマンガの台詞だが「理解と解釈の間の壁は果てしなく高い」のは、これはもう世界そのものの構造なので諦めるしかない。

 Aさんに言わせれば世界とは思いとか願望、願いを叶えるための仕組みなのだという。
 願望実現装置というか、システムというかそんなようなものなのだが、それを言葉で特定するのは難しい。どうしても違和感があると言っていた。イメージ的には無限の要素がマンダラのように流転変容展開し続ける巨大な壺だということだった。
 世界そのものが巨大な願望器なのだが、我々はその中にいるためにその事を自覚しにくい。
 世界は願望器だがその外には出られない。出るためには死ぬしか無い。だから覚者達ですら出てはいないのだという。
 逆に大涅槃とかで外に出たら、今度は世界との関係そのものが切れているから、中にいる我々にはアクセス出来ないのだという。
 思いや願いに敏感に反応して世界はその思いを実現しようとする。
 ところが、世界はその思いを全て、その人の全ての要素の納得を織り込む。
 つまりその人の全体性、全存在が納得する形で実現しようとするのだ。
 その意味で全ての人の境遇というか現実性は、自己の選択というか、決定の結果なのだという。
 ここでAさんは以下のように補足した。
 だからといって、地獄のような環境にある人は絶対に納得しないだろうと。
 難病でも貧困でも人間関係でも、到底太刀打ちできないような凄じい状況にある人は、こんな話を聞いても絶対に納得しない。
 蓄積された怒りと苦痛は火山の爆発のような反発になって現れるだろうと。
 アフリカ辺りの生きたまま蟻に食われる飢餓難民がこの話を聞いて納得するわけがない。お前も蟻に食われてみろと言われるのがオチだ。
 Aさんは人間には深さがあるという。南極辺りの海に浮かぶ氷山で言えば、水面から出ている部分が自覚できる「自分」というやつで、その下にその遥か倍以上の様々な自分が存在しているのだと。
 だから納得するのもしないのも言わば上澄みみたいな部分の話であって、もっと深い部分で答え? 決定? 判断?(Aさんはこの部分の言葉をどうしても絞りきれなかった)は出ているのだという。
 その深い部分、基底の部分で出た内容について追認するのが思考なのだという。
 だから潜っていくのだと。会いに行く。基底に。判断を下した基底に。
 底に出会う。するとそこで体験を得る。知る。一致する。
 物凄く辛い現実、現実って言葉にしてる段階でもう既におかしくなっちゃうんだけど、それを「その」って言葉で表すとしてさ(Aさんの口調)
 つらい「その」なんだよね。物凄く重大な病気でとか、凄じい貧困でとか。
 それをずーっと潜っていく。遡っていくでもいい。
 するとやっぱり決定を下してる実体みたいなのに行き着く。
 ああ。なんだ。そうだったんだ?
 その実感、体感が決定的に重要なのだという。
 それが無ければ本当には納得は出来ないのだと。
 胸の中からこう、花がふわーっと開くように実感が湧いてくる。それが無い限り絶対に納得は出来ないのだと。
 ここで私なりに補足すると、Aさんは別に人の状況の責任やら何やらを明らかにしたり、追求したいわけではない。自分が悪いとか、いいや自分は悪くないとか、そういう事を言いたいのではない。
 ただ「わかる」のだと。そういう言い方をしていた。
「言葉が本当にめんどくさい」と言ってAさんは笑った。
「到達すれば判る。そういうもんだから」とも言った。
 願いは願った瞬間に実はもう届いている。世界に繋がっている。つまりその時点でもう叶っている。
 問題は受信が出来るかどうかということで、自分がやるべきことは言うなればチューニングだけだという。
 世界はそれ自体が驚異であり奇跡だと。その驚異は無限であり尽きることもとどまることも無いのだと。
 だから世界は「そのまんま」なのだと言っていた。見たまま、あるがままだと。意図そのものとしてあるから全て与えられている。それがキリスト教が言う愛なんだろうと言っていた。
 だから愛は器であり、拡がりであり、最初からそこにある。絵では無くてキャンバスなのだと。世界そのものが愛であり、我々自身も同じものなのだという。だって我々は自分の爪を見るけれども、その爪も自分自身だろう? という理屈だ。
 世界は優しい。世界は美しい。どうしてもそう感じてしまうと言っていた。
 問題を作り出しているとしたら人間の方なのだ。人間は全て狂っているが、狂っているなりにやはりそこに美しさを感じてしまう。多分それが自分の個性なんだと言っていた。
 他にも地球は下へと向かうドリルだとか色々話したけれども、その内まとまったらまた書こうと思います。

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