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神の秤

私は、人に認められずとも、神に認められればそれで良い。

 頑張っても頑張っても報われない、そんな時。せめても人にはこの頑張りようを認めてほしくなって、大声で叫びたくなることがある。時々ある。けれども、その度に考えるのだ。

「人に認められたところで何になる?」「神に認められるのならばそれで十分」

 それでも人の目を気にして、「いえいえ、私は頑張っているのよ。今ひとつ、ちょっとばかし報われていないけれどもね」なんて言い張って、見栄のようなものを張ろうとしてしまう。
 人間の高慢、プライドというものはまったくくだらなくて、いい加減で、そしてしつこい。

 自分の心に生え茂る高慢という荊棘を、さっさと切り落としてしまいたい。
 神様、どうかお願いです。私、自分では自分の心臓近くに枝切り鋏を近づけようがないので、神様が切ってしまってください。思い残さず、バッサリとお願いしますよ!

 自分の思い、自分の頑張り、自分の見栄、そういったものは一切合切、神の秤に乗せてしまって、価値を計っていただくのが良い。人間の価値観に照らし合わせて計ったら、人によって価値が上がったり下がったり、とんでもないものにとんでもない価値を計り充ててしまうことだってある。そして、そんな出鱈目な価値に一喜一憂することは、いたずらに時間と労力を費やしてしまうようなものだ。

 神の秤で「価値無し」とされた見栄はさっぱり捨て去って、「価値有り」とされた頑張りを喜んで、次の頑張りへの糧としよう。神様は、価値有りとされたことに対しては、30倍、60倍、100倍の恵みをオマケとして付けてくれるかもしれない。
 詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてくださる神様だからね。(ルカの福音書 6:38)


2023/01/15

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