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「◯◯に見る、~構造の△△とは」←こういう題名

日くろ読んでたら立川談志の名言とやらを目にした。ヘッダ画像をお借りしています。最初このページの題名は「伏せた欲望の美徳とは」だった。

談志の言葉

ぼくは物心がつく前にはぼくの世界から談志を失っていたため生前の立川談志に巡り合う機会が著しく少なかったといえる。

だから談志のした発言が知れることは嬉しい。少なくとも大田の口以外から聞けるのであれば重畳である。

今回談志の言葉を紹介してくれた人はこゆるぎ総合研究所という団体の代取である鈴木 良介という人でした。どちらも初めて知る。

紹介された言葉は「上品とは欲望に対して行為の遅いことである」というものでした。ぼくは鈴木の書いたこのニュース自体に対しては深い共鳴を覚えた(見事にダークパターンマーケティングの凡例を批判していて素晴らしい)ものの、せっかく紹介された談志の言葉についてはそこまで思いを馳せることはなかった。なぜか。

控えめが美しいのか?

それは欲望を解放することが良しとされない日本文化といいますか、抑えて暗黙のもとにせよみたいな気風を、ぼくはもともと敬遠すべき文化だと思っているため。女が奥ゆかしくあれとか男が女を支えろみたいなことでしょうか。極端に言えば。極端すぎて例に出すべきではなかった気すらしてくる。

「控えめでいろ」「黙ってることの美しさ」「なんとなく察しろ」みたいなものに情緒を感じないわけです。ちょっとは説明して?と。

意思疎通器官、手段を持ち得ている生き物なんだったらそれなりに説明を加えたほうが、加えないよりなんらか平穏に過ごせる気がしなくもない。男は黙って餅をついている場合ではないわけです。

背中で語れとか、不器用ですからとかは幻想に過ぎない。過去に生み出された幻想が独り歩きして森の中を彷徨っている。何の説明もされずに業務内容を理解しろとか言われたらそんなの単なるパワハラだ。

欲望の解放とは(文芸編)

関係ないけど上記談志の言葉を鈴木は加賀まりこの本で知ったらしい。不思議な縁だと思う。ぼく自身も経済だのメーケティングだののことしか書いてない日くろを読んでいて談志の残り香に会えたことを嬉しく思う。また加賀まりことは空母の名前が名字についていて面白いと思う。

ぼくはネットミームとかスラングは分断を運ぶだけだと思うのであまりそっち寄りのものを引用したくはないんだけど、純粋な文献として引用すると欲望の解放とはしばしばそれなりにやらないと下手っぴさと揶揄される。賭博黙示録カイジによる。

つってカイジは福本的に人が欲をむき出しにしないと話が成り立たないから、福本の頭の中で各キャラクタたちが欲望ベースにどんどん性格改変とかされてそのように出来上がっている節もあるのかもしれない。それでなければ藤原竜也の物真似をする人で世間は溢れなかったかも知れにし、藤原自体がここまでのし上がれなかったのかも知れない。

つまり談志のような演芸の世界だけでなく、文芸の世界においても欲望はスマートに解放しなければならないらしい。確かに、異性を強引に押し倒したり連れ込み旅館に押し込めようとするのは一般的にやばい。欲望の解放どころではなく犯罪に分類される。人間の尊厳を著しく破壊しているから。

どうやら芸の世界では説明しすぎることは美しくないらしい。芸とは表現の表出のひとつの形にすぎないので、伝えたい欲求は抑え込まないといけないっぽい。

欲望の解放とは(SNS編)

欲望の話は承認欲求に立ち返る。ぼくは当初このページの題名を伏せた欲望の美徳とはにしようと思ったと冒頭で述べたがこの通り変えた。「なんたらに見る〇〇のどうたらとは」みたいな題名っていかにも読み物として成立させたい感がでて、読んでる側も俺わかってる感に浸れる。

少なくとも文を書いて発する行為に対しなんらかの反応を求めたいのであれば人目につく題名にしたがるのではないだろうか。したがって今ぼくが例示したような知ったかぶり題名が好まれるんじゃないかと思う。実際にこのサイト内をリサーチしたことはないから知らない。じゃあここは文芸ではないのだろうか?単なるSNSだからそれぞれ見てくれ、見てくれと欲望を解放した題名があふれかえるのだろうか?むしろSNSってそこまで欲望を解放しちゃっていいのだろうか?ならなぜ、こと承認欲求に限ってはそこまで浅ましい欲望解放が許されるのだろうか?……

言い訳するわけじゃないんだけど、ぼくは題名をつける作業がとてもきつい。ともすれば承認欲求が非スマートに開放された題名になっちまうからです。

「俺めっちゃ良いこと書いたから見てくれよ感」なんて出したくない。といいますかぼくはそんな良いことを書きたくてこれを続けているわけではない。仮にぼくの何かしらのページを読まれた方から一度でもそう見えたのであればちょっとぼくは自分のブランディングに失敗している。

つまりここにおける欲望の解放とはいかにも人に読ませたい題名をつけて、いかにも含蓄あるようなことを本文でのたまうことになる。ぼくは文筆的職じゃないけど、文筆的職だったらだれでもそうなっちまうんだろうか?だったらちょい悲しい気がする。文的職の業だったらイコール何を書こうがやにわに「そういう題名」をつけなきゃいけない使命を帯びてしまうのであればぼくはそれを悲しく思う。文芸がSNS化している?SNS化しようとしている文芸を、もとの文芸の位置に戻す作業が必要なのではないか?

ぼくはそれを逆手にとって今回このような題名をつけた。どちらかというと承認欲求が解放されたというよりは何だかうまくそういう内容に帰結したからです。そしてぼくも過去にそういう「読まれたい奴がつけるような」題名をつけていないわけじゃない(言い訳すると、そういう題名が好まれる雰囲気とか空気みたいなものを一切わかっていなかった)から、もはや何を言われても仕方ないんだけど。

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