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雨が止むまでここにいよう

シドニアの騎士の最後の方の内容を含むのでご注意ください。ヘッダ画像をお借りしています。

最近ドロヘドロの感想をここに書くくらい好きになっていた、好きという感情を思い出していたんですが、ドロヘドロの読み進めが結構進んでしまいそうなのでぼくにとって恒例の「先を読み終わりたくない」症状が発動しました。

だから似てる感じのシドニアを掘り起こした。物心ついてから読んだ漫画はあんまり覚えていないものです。一度読んだことはあった。

シドニアは戦いのパートと一般生活ラブコメ部分に分かれているとぼくは思っています。前者では難しい文句が飛び交い、全部理解しようとするとひとつ読み終わるために2時間ぐらいかかってしまうので脳死で読めるラブコメ部分を中心に読みました。

この作者さんの特徴なのかも知れませんが、とにかく主人公を下げまくる。上げるのは最後だけぐらいじゃないでしょうか。途中でちょいちょい「すごいんだね~」的なエリートのクローン然とした描写が挿入されますが(されなければ読者も思い入れができなかったり、何よりも最後のカタルシスを迎えるために必要だったりするかも知れませんが)、主人公がぼこぼこにされる。精神的にも蔑まれて追い詰められる。もはやそういう趣味なのか?と思わされる。ぼくはそのような趣味はないため読みたくなくなる。

主人公がぼこぼこにされるということは、その逆を行く連中が出てくることを示していまして、それがまたぼくの「主役側の相手つまり敵側は物語中で単にうっとうしいとしか思えない、何の感情移入も思い入れもできない」という気質に対してマイナスに―――――マイナスと言いますか、その気質が正常に―――――はたらきます。

岐神とか落合についてもう単にお話の邪魔でしかなくない?と思い始める。それは大衆合船とか感情がない敵とかも同じです。

なんつっても星白閑(主役側であるという前提)とかに至っては純粋に尊厳破壊までします。

ヒロインが死ぬ、とかは普通かもしれませんがヒロインのつむぎが破壊されゆく様を丁寧に書いたりする。

そこまでいくと、作者と相性が悪いなら読むな、ぐらいのことを作者サイドが言う権利はあるかも知れません。でも感想ってこういうものだと思う。作者と読んだ人の気質の差異を表現するのが感想文の定義だと言えるだろう。「作者と全く同じことを思ったので、すごいと思いました」という感想文がこの世に必要だろうか?

ぼくが一番気になったのはつむぎと口約束上では結ばれた後に、題名のセリフを館長が言った後に、性行為があったのか否かだけです。どっちにも捉えられる場面転換の仕方が作者さんは本当に得意というか好きというか、どちらかなのでしょう。

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