僕と国分寺赤米プロジェクト 1巻
2018年、4月7日。
国分寺駅にツインタワーや商業施設が入り、その記念セレモニーとして4月1日からの1週間、
様々なイベントを開催していた。
その中の一つ、国分寺の未来をつくる3つの事業という催しがあり、
これから始まっていく3つのプロジェクトのメンバーが、登壇した。
会場には大体120人くらいの人が集まり、
僕はそのプロジェクトの1つの発起人のリーダーとしてプレゼンをしたんだ。
古代赤米水田復活!
という名称で、1年後に
国分寺赤米プロジェクトという名前に改名する。
2022年に、僕は母体の会社をやめ、リーダーを降りた。
2018年〜2022年の5年間。
まさに走り抜けたとしか表現しようがないくらい濃密で、命を削った。
たった5年といえばそれまでだが、国分寺の在来赤米、武蔵国分寺種赤米の、極早稲で高速で育ち、倒れて、脱粒しやすい種で零れ種を落としていく姿にも似てると今となっては思う。
続けていく事が大事だとか
本物だとか
継続する事の凄さとかわかるけど、本当にそうか?とも思う。
続けるって、どこまで?いつまで?形あるものは、いずれ無くなっていく。
だが、想いは時空を超えて続いていくんだと思う。過去の祖先たちが、子孫を未来を想って願って行ったものやエネルギーがきっと今も守ってくれたり、支えてくれてもいると思うよ。
目に見える形としては子孫(種)をつなぐという形で終わるもののバトンリレーとして全体としては続いていく。
花も人も
散るから、美しい。
死んで悲しまれる人ではなく
花びらを振り撒いて
散っていって氣持ち良さと笑顔を残していける人になれたらいいな。
続けていきたいこと。
それを何のために続けるのか。
どんな想いで続けるのか。
理由なんてなくても、やりたいからやる。やりたいんだったら、それでいいと思う。
僕のようにはっきりと自分の目的があると、
やりたいは前提でどんな想いでやってるかが重要で、その想いの熱さや大きさ強さ優しさ氣持ち良さ純粋さなど、
そのヴァイブレーションに琴線が触れないと、一肌脱ごうとは思えない。
しびれるような粋な生き様や
ホロっとしてしまうような人情
そんな人間になれたらと思う。
一肌脱いでも、都合よく使われちゃったり、裏切られた様になってもしまったりするから、
想いだけでやっていくのも限界はあると思うんだけど、
だからといって、想いまで捨てたら何のためにそもそもやってるのか見失ってしまう。
人生とは宇宙の長さや大きさからすると一瞬の輝きのようなもの。
永遠に不老不死で生きることが美しくて楽しいのか。
火の鳥はご機嫌そうだけど、
その力を得ようと欲望むき出しで、醜く生きながらえようとするよりも、
どう散っていくか
どう死んでいくかに美学はあるのかもしれないね。
そのために、どう生きるか。
というか、どう生きたいか。
正解とか間違いじゃなくて
自分がどうしたいのか。
やっぱり、命の輝きこそが美しいね。氣持ちいいね。
2023年から市民団体として
一緒に走ってくれていたメンバーのみんなが引き継いでくれ、
新生して新たに動きだしている。
先日、2024年も活動を続ける事になる事を知りました。
僕はプロジェクトの活動には現在一切関わっていない。関わるだけの色んな意味でのキャパが今の僕にはない。
あのプレゼンをした日から丸6年。ついこの間の様にも感じる。
時間というものは平等じゃないし、最新の物理か何かの領域でも存在していないということが証明されているような事も耳にした。
多分、伸び縮みする。
時間が長く感じたり、一瞬で過ぎた様に感じるのも氣のせいじゃないと思う。
時計というものによって
1分は60秒で
1日は24時間で
1年は365日だっていう
そして、未来に一方的に進む方向の時間しかないような錯覚をしているんだと思う。
1万円札が、原価22円のデザインされた紙にも関わらず、
みんなが共同でこの紙には1万円の価値があるという設定だからそうなってる。
時間も、そういう時計時間縛りプレイを当たり前にやって、それで動いてるから、そういうもんだと錯覚しているだけで、本来は違うんだと思う。
国分寺赤米プロジェクトについて、文章にしようと思ったらかなりのボリュームになってしまうだろう。
1年前、辞めてすぐに
文章化しようと思った瞬間もあったけど、どうにも向かい合える心境や状況にならなかった。
そして、一切このプロジェクトに関して触れることはやめようという氣持ちにさえなっていた。
今回、記事にしてみようと思ったのも、思うところあってのこと。
ちょうど、4月7日を経て
6年かと感じたこともあるし、
元大家さんが現プロジェクトの情報を氣にかけていたこと、
現プロジェクトメンバーから連絡があった時の、心のモヤモヤというか違和感の正体を突き止めたいと思ったことなど、
書きながら自分自身と向き合いたいと考えたからだ。
僕の調子にもよるから、今回で終わるかもしれないし、連載もするかもしれない。
当時、国分寺赤米プロジェクトを題材に、本氣で本の執筆も考えていたし、書けると思っていた。頓挫したけど。
書き終わったとして、売れるかは別だけどね。
それくらい濃くて、氣づきや学び、ドラマがあった。お米づくり(農業)という免疫の一切ないど素人の純粋な僕が自然農というやり方で、自然と人と対話しながら得てきたからこそ新鮮に感じ取れたものが多かったんだと思う。
2022年は80人くらいの方がプロジェクトメンバーとして参加してくれて、カオスも極まっていった。チーム組織として、定まっていないことや、あんまり管理するシステマチックな方向性を望まなかった事もあって。
関わる人が多くなっていった時に、個別対応の難しさや、
ああ、こうやって
関わる人の色んな人のヴァイブレーションによって、
本来の状態が保てなくなるんだなと。
ざっくりいうと、ケガレたんだと思う。ミソギハラエが必要だったができなかった。
ケガレとは、氣が枯れるから
元氣な状態じゃなくなってしまうこと。
僕の仕事のやり方もあったし、
家庭内での関係性もあったし、
とにかく、これでもかといくらいに、酷された。辛かった。ほんと頑張った。
でも、それは自分が自分の事を大切にできていなかったから、それが現象化してたんだと思う。
僕は、5年間で
のべ何人の人と一緒に農作業といか、赤米づくりをしてきただろう。多分、感覚値とざっくり計算で1000人は超えてるかな。
作業をするだけじゃなくて、
一緒に対話したりしながら
自分なりにその時にできるベストで、一人一人と向き合って関わってきた。
会社人として、会社の人間、地域の関わってくれるプロジェクトメンバーの間に立たされて、
色んな方向からの中間管理職みたいな感じになっていた。
始まる前の経緯や、始まってからの本当の本音や裏のこと、
表に見えない部分まで
全てを感じ取っていたのは僕だと思うし、
逆に傍からじゃないと感じれない事もあるだろうけど、
関わる人の様々な思惑や氣持ちが重なり、結果として現在にいたる。
現在の形に落ち着くのは自然と結果としてそうなったわけで、コントロールできるものではない。
僕が精算したいのは、全身全霊でこのプロジェクトにかけてきた莫大な熱量とエネルギーが大きかった分、
それが自分の元から突如消えてしまって
不完全燃焼を起こしていると同時に、
一年経った今でも、
積み重なった疲労と
深く傷ついた、怒りや悲しみが消化しきれていない自分が奥の方にいることを感じること。
自分なしで運営が行われているのは素敵な事だと思う。
リーダーはいなくならないと、次の人は現れないし、
いつまで経っても、お山の大将でいたいとは思わない。そんな古老になりたくないから。
譲れるものは譲っていきたい。
自分の立場を譲れない人間にはなりたくない。守りたいものは自分の立場やメンツではなくて、その場そのものだし、
あの世に、来世に持っていけるものが何かを見失いたくない。
そして、今更僕が国分寺赤米プロジェクトの事を書こうと、誰も興味がないのも客観的にはわかる。
世間的、社会的に言えば
そんなプロジェクトを知らない人の方が大半だ。誰も得しない。
今、自分が氣持ちのいい波動の文章を放てているか?とえば、そうじゃないと思う。
重たい感じかなぁ。でも今の自分がそうなら、それはそれでしょーがない。だったら、そんな自分本位な文章は発信しなければいい話だけど、
今の僕にはアウトプットする場所がnoteくらいなもの。
だからこの文章は、
過去、自分を置き去りにして
無理して頑張っちゃった自分を癒し、労い、
深く傷を負い、怒りと悲しみが奥の方で消化しきれていない
国分寺赤米プロジェクトのリーダーだった坂本浩史朗に捧ぐ。
みんなの氣持ちに応えられなかった無念な自分もいる。自分と同じ様にみんなの事も大切にできない状態にもなっていたと思う
(3580文字)
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