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徒然なる自叙伝 1巻

(3580文字)

思い立ったから、自分のために、自分を整えるために、自分の人生を今ここで振り返っていこうと思う。

それが、僕だから。

叶っている理想の未来を味わいに行く前に、今ここで40歳になる前に、人生の棚卸しをしておきたい。

この先の世界線へ辿り着くまでの軌跡を。

感覚で特に考えずに筆を走らせる。

人は何度でも生まれ変われる。

そうして、僕は何度も生まれ変わってきたし、これからも生まれ変わりつづける。

根本的な性格とか、変わらない部分もあったりさ、

変わったり戻ったりもある。
僕なりに、この世界のゲーム設定みたいなものが、感覚的に掴めはじめてる。

ただ、それさえも
この世界のほんのわずかな一握りでしかないだろう。

知らない事だらけだ。
知ってる知ってない
どっちがいいとか悪いとかじゃなくて、

純粋にこの宇宙は未知のことだらけだ。

レベルの違いと次元の違いで例えると、

生まれ変わるとは次元が変わる事。

同じ次元で、レベルをいくら上げようとも、次の次元では前の次元でのものは役に立たない。

どれだけレベルアップしようとも、また振り出しにもどってスタートだ。

そんな感覚を何度も味わう。
体験して感じてきたものは、もちろん自分に宿るわけだが、

それが、僕の中では生まれ変わるという表現になるのかもしれない。

今まで認知できなかったような視点や感覚が増えて世界がより一層広がり深まりゆく。

広がりと深まりは、無限なのだとしたら、

知らないことが、なくなることはない。

ここまで、本当にありがとう。
よく耐えてきたよ、浩史朗。

0歳。
坂本浩史朗(さかもとこうしろう)岐阜県土岐市にうまれる。
坂本家の男三兄弟の長男。
父、母、兄弟3人と、母方のばーちゃんの6人家族だ。
ちなみに、ばーちゃんがO型で救われたが、その他全員B型のまとまりという言葉と一切の縁がなかった。全員自己中の極みとそれのぶつかり合いというのが、我が家だった。

父は23歳、母は20歳で結婚して、母が26歳の時には、子どもは3人になっていた。
僕、年子の弟、4つ下の弟。

両親は高卒で、
おとんは、青森の五戸町の出身。
おかんは、岐阜の土岐市。

おやじは、5人兄弟(上から女女男男男)の上から4番目。
兄弟で唯一、青森から出てきた男だ。高卒で、集団就職で東京に出てきて、その後名古屋に行き、地元へ帰ろうと思った時に、おかんと出逢う。

青森のじーちゃんは、りんご農家だった。ほとんど記憶になく、小さな頃に会っていたり、写真で見るくらいだっし、3回くらいしか会っていない。

青森の親父の実家は今は更地になってしまってなくなってしまった。当時は目の前に田んぼがあって、薪風呂でぼっとん便所で、家は傾いてて、親父の机はみかんの段ボール箱だったらしい。(そこは、りんごじゃねぇのかよ!とツッコミたいよね。笑)

おかんは、ばーちゃんと二人で、風呂無しボロアパートに住んでいたらしい。向かいの家にはプロレスラーの故・橋本真也が住んでいたらしい。

ばーちゃんは、旦那が酔っ払って車で川に落ちて無くなっちゃったみたいで、未亡人だった。
子どもは、男が3人。

うちのおかんは、未亡人だったばーちゃんと、子どものいない(できなかった?)陶器屋の社長との間にうまれた。

いわゆる、不倫というやつになるのかな。陶器屋の社長はじーちゃんということになるが、こちらのじーちゃんとの記憶もほぼない。
そのじーちゃんの奥さんはお医者さんだったらしい。その当時で女性で病院を営んでいるってなかなかなんじゃないのかなと思う。

確か、子どもが嫌いだったらしいみたいな事は聞いた事があるかもしれない。

うちのおかんは、戸籍上
存在していないことになっていたらしい。忘れちゃったけど、僕が20代半ばくらいのころに、裁判を起こして、戸籍は認められたのか、よくわかってないけどとりあえずまるくは治ったらしい。形式上。おかんの心理的な事を思えば色々複雑だろうなと察するけど。

ばーちゃんは、幼いおかんをおぶって豆腐屋で働いていたらしいが、うつ病やらで精神を病んでしまい、おかんは小学校のころ毎日泣いていたそうな。

ちなみに、うちの両親は3度入籍している。同じ人と。

つまり、2回離婚していて、今は一応くっついている。

1度目の離婚の時に(当時、浩史朗19歳)家族とか、親戚の感じがよくわかんねぇなぁとか思ってたけど、その時に知らされた。

また、僕が産まれる前に
2人の子どもを流産していること、3番目の弟の後にも1人の子どもを流産していることを泣きながらカミングアウトされた。

まぁ、いきなりだったからそれなりに衝撃はあったよね。

恋愛の離れて、より戻してみたいなのを、結婚でやってる。
まぁ、紙切れだしね。

貧しかった父と母が、若くして親の助けなしで子ども3人を養ってきたこと、

感謝でしかないよ。
ほんと、ものすごいエネルギーだと思うんだよね。

二人とも不器用だが、人間くさくて情にあつい。

生まれてすぐなのか、それなりに幼い頃、僕は病氣がちで、小さな子が患うという病氣の全てを短期間で患い、ずっと?入院していたらしい。そして、点滴やら薬漬けだったと思うし、きっと色々接種されたんだと思う。

僕は今の外見や、受け取られる印象からは想像されにくいんだけど、

小さな頃から、しばらくは身体が強くなったし、軟弱だった。

アトピーもずっと患っていて、ステロイドなどの薬を塗り続けていた。病氣になれば、大したことなくても、すぐに病院にかけつけるタイプの神経質で、か細い男の子だった。

今は、病氣にならなければ病院にも薬にも頼らないスタンスだけど。

3歳〜。

小さな頃の記憶を思い出した時に思い出される映像は、幼稚園のパレードの時のこと。

多治見市の私立の幼稚園に通っていて、いつもドナルド号(バス)が迎えに来てくれていた。

パレードで僕は太鼓を叩いている。

まだこの世界にチェックインできていない感覚が強くて、

視界は目の前の50cmくらいしか見えてない。いつも下を向きうつむいている。周りに人がいて、行進をしながら太鼓を叩くこのパレードに違和感を感じながら、周りを見渡せずに下ばかり向いている。

何でこの時の記憶が鮮明なのだろう。

友達と遊ぶような活発なタイプでなく、いつも一人の世界に閉じこもっていた。休み時間は、ベランダの日向で、絵を書いていた。その時は、迷路を良く書いていた。
いつもフワフワしていて、現実をいきていたのかよく分からない感覚だ。

周りのやんちゃなやつらが戯れて、戦いごっこみたいなのして、ジャングルジム的なものから落っこちて、頭を怪我してた。

幼稚園の夏祭りか何かで、絵本やカブトムシや、お菓子がもらえたのが嬉しかった。

6歳〜8歳くらい。
小学生に上がると、登校があった。うちは団地の坂の上の方だったので、帰り道がしんどかった。

うんこが漏れそうなのに、家に辿り着かなくて、必死でそれを我慢しながら家に辿り着いたことを今思い出した。笑

あとは、朝のマラソンで校庭の周り走ってたな。

ああ、そうそう。
岐阜だから、それなりに周りに自然が残っていた。ただ、開発された住宅地の団地だったし、国道も通ってるようなところだったから、裏の山とかが遊び場だった。

こぶし園といって、学校の脇に、ちょっとした山の斜面に階段や、小さな池と水の流れがあるような場所があって、そこに秘密基地をつくって遊んだり、船を牛乳パックとかでつくって、水に浮かべたりして遊ぶのが楽しかったな。

岐阜は、山に囲まれている。
団地にある、立体的な公園があって、そこで良く遊んでいた。
遠くを見渡すと、常に山並みが見えて、山に囲まれている。当たり前だったが、関東に出てきた時に、山に囲まれていない違和感と、山を愛おしく思った。

うちの団地の裏も山があり、
近所のお兄ちゃんたちと、その山へ男のロマンだといって、エロ本を探しに行ったり、(山の中って結構落ちてたりする)山の中を駆け回って、落ち葉を踏みしめるような事はよくやっていた。

小さな頃、男の子ってハマる系統のものが、色々分かれると思うんだけど、

僕は恐竜が好きだった。こんな生き物が太古の昔に地球に存在していたの!?という驚き。
あとは、テレビ番組でやってた、心霊系、UFOとかネッシーとか、ビッグフットとか、古代やロマンを感じるものや、本当かどうか分からないようなところへの探究心みたいなものが、好きだった。目に見えない、存在するのかわからないような得体のしれないものに小さな頃から関心があった。やっぱり、それは基本今も変わらない。

時系列は前後したりするかもしれないけど、その時に思い出せる、また表現できる言葉で、氣が向いた時に書いていこう。

こっしーの自叙伝何巻までいくのかな。この記事の画像「この世はギャンブル時に任せて生きていけ」は小6の僕が書いた言葉なのですが、ある意味真理かな

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