見出し画像

35. クレイジーな客

 私は1年前まで、ビジネスホテルでホテルマンの仕事をしていた。
約8年、ホテルマンとして働いていたわけだが、8年も接客業をしていると、時にイレギュラーな出来事と巡り合う機会も多かったものだ。

そこで今回は、今でも鮮明に記憶に残っているホテルマン時代のエピソードでも語っていこうかと思う。

【ケース① ズボンがないと寝れないマダム】

 あれは私が入社をしてまだ間もない頃。
その日、私は遅番で、夜勤スタッフと2人でフロントに突っ立っていた。

確か、時刻は20時を過ぎたくらい。
出張で来るお客様の波が引いて、束の間の休息タイムを過ごしている最中。彼女は突然現れたのだ。

「ちょっと!」

見ると、廊下とロビーを繋ぐ位置に、50代くらいの女性客がひとり、浴衣を握りしめ仁王立ちしていた。遠目からでも分かるほどに、髪が濡れている。風呂上がりだろうか?というか、明らかに怒っている雰囲気をムンムンと醸し出している。これはやばい。

「なによ、これ!!」

そう言って、マダムは夜勤スタッフが立つカウンターへとツカツカ歩き、バンッと手に持っていたそれを叩きつけた。反対側のカウンターに立っていた私は、「えっ、えっ、、」とうろたえる夜勤スタッフを横目に、心のなかでそっと答える。
「それは浴衣です」、と。

「なによこれ!なんでパジャマじゃないのよ!!」

あぁ、なるほど。
この時、私はマダムの言葉の意味がすぐに理解できた。

最近のビジネスホテルは、上下が分かれているパジャマタイプの寝巻を置いてあるところが多い。しかし、私が勤めていたホテルは、未だに腰を帯でしめるタイプの浴衣をアメニティとして置いていたのだ。

「えっと、えっとぉ……」

しかし、マダムに責められている夜勤スタッフは、事の意味が分からなかったのだろう。ずっとオロオロとうろたえ続けていた。
ちなみにこの夜勤スタッフは、私とほぼ同じ時期に入社をした、いわゆる同期だ。確か私より4つ5つ年上の男性だった。ここでは仮に『K氏』と呼ぼう。
この時すでにK氏の額には、うっすらと汗が滲み出ていた。

「ズボンがないなんて聞いてない!今時、浴衣なんてありえないでしょ!?」

まぁ確かに。浴衣を置いてあるビジネスホテルは今時ではないのかもしれない。だけど、そんなに怒ることだろうか。

理由は何であれ、とりあえずマダムを宥めなければ。そろそろ私も助け船を出そうかと、一歩、K氏の元へ足を踏み出したその時。マダムは怒りに任せてこう叫んだ。

「浴衣なんて絶対無理!私、ズボンがないと寝れないのよおおおお!!!」


―――笑ってはいけない

踏み出した足を戻しつつ、口元に力を入れた。
この瞬間から私のなかで、『絶対に笑ってはいけないホテルマン24時』が開幕されたのだ。そう、笑ってはいけない。

「いや、でも、うちのホテルには浴衣しか……」
「どうにかしなさいよ!!」
「どっ、どうにかと言われても。なにか……なにか……替えのズボンはないんですか……?」
「ないから言ってるんでしょおおおお!!!!」

相変わらずオロオロとしているK氏は、マダムの神経を逆撫でさせ余計に怒らせた。額には大量の汗が吹き出している。
K氏はいい奴だったが、同時にちょい頼りない奴でもあったのだ。

 幸い、この時フロントに他のお客様はいなかった。しかし、このままでは埒が明かない。やはり私も一言もの申そう。

そう思い、気合いを入れつつ踵を返した。と、その時、またしてもマダムが雄叫びをあげた。

「どうするの!!?私、寝れないじゃない!!」

「ブッフォッ」


―――笑ってしまった

当時は、マスクなんてしていない健康時代。ゆるむ口元を隠すこともできず、盛大に、思いきり私は笑ってしまった。

「あんたなに笑ってるのよおおおお!!!」

すかさず、マダムの怒号がこちらへ向けられる。それと同時に、この時マダムが持っていた浴衣が私の顔面めがけ、勢いよく飛んできた。

―――痛い

運動神経の悪い私は、マダムが投げた浴衣を避けることができなかった。華麗なまでのコントロールを放ち、浴衣は私の顔面にクリティカルヒットしたのだ。タイキックならぬ、顔面浴衣の刑に処された瞬間だった。

綺麗に折り畳まれた浴衣が顔面に当たると、もはや凶器レベルで痛いのだということを、この時の私は学んだ。

 その後の記憶は曖昧だが、とにかくひたすらK氏と共に謝り続け、マダムには客室に戻ってもらった。当然、ズボンはない。
だからこの日、マダムが眠れたのかは謎である。

優しくない私は、正直ずっと思っていた。マダムが「ズボンがないと眠れない」発言をしたその時から、「知らんがな。それなら家から持ってこいよ」と。

ただ、今になって思えばこの時の私の対応は、ホテルマンとして0点だったと思う。接客業たるもの、もっとお客様の気持ちを考え、誠心誠意対応をするべきだった。“ホテルマン”という職業は、私には向いていなかったのかもしれない。

それでも、8年間務めたホテルマンとしての経験は、こうしてエッセイを書くうえでも思わぬ副産物となっている。結局、過去を活かすのは今しかないのだ。

‟経験は財産”という言葉を胸に、これからも私はさまざまな出来事を咀嚼して噛み砕いて、未来の自分へのささやかなプレゼントにしていこうと思う。

【今日の独り言】
本当は[ケース③]まで書きたかったが、予想以上に長くなって断念。いつかまた続きを書こう。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?