34. 読点が、好き
読点を生み出した人は、読み手のことを考える優しい人だったのか。
はたまた、文章を読みやすくしようと思いついた、文章好きの人だったのか。
真意は分からないが、私は読点が好きだ。
というのも、私は昔から『呼吸を感じる文章』を好む傾向にあった。
ちなみに、『呼吸を感じる文章』とはどういった文章か。この点においては、完全に私個人の感覚からなるものなので、あまり深くツッコまないでいただきたい。(真顔)
簡単に言ってしまえば、書き手の思考や情熱とは別に、息遣いまで感じられる文章が好きなのだ。そういった文章は必ずといっていいほど、読みやすさの他に、書き手からの無言のメッセージが込められているように感じる。
これを書いている時、作者は何を思い返していたんだろう。どう感じ、どのような想いを込め、何を届けたかったんだろう。
読んでいて、文面の内容とは別に、ついついそんなことまで勘ぐってしまう文章ほど、不思議な読点のつけ方をしているような気がするのだ。
そもそも、読点とは何なのか。
ふむふむ、なるほど。やはり、文章を読みやすくするための区切りか。
しかし、個人的に素敵だなと思う文章は、「そこに読点をつけるんだ?」と一瞬疑問に感じるものが多い。区切らなくていいところを、あえて区切っている。まるで強制的に一呼吸置かせられる感覚に陥るが、それがいい。含みをもった文章ほど、魅力的なものはない。
私には、‟この人みたいな文章を書きたい”と憧れるライターさんはいない。というか、あえてそういった存在は作らないようにしている。(‟こういう内容の小説を書きたい”と憧れる作家さんはいるが)
その理由は、‟自分の文章”を見失いたくないから。
私が書く文章は決して上手ではないし、ライターとしての技量やセンスもまだまだだ。だけど、世の中には優れた文章を書く人や、どれだけ手を伸ばしても届かないと感じるライターさんはたくさんいる。憧れたらキリがない。
だから、怖いのだ。あまり他人に影響をされすぎると、‟自分の文章”を見失ってしまう気がする。下手でもいいから、私は私だから書ける文章を書きたいし届けたい。
ただ、呼吸を感じる文章に出会った時は、「こんな文章が書きたい」と、ついつい思ってしまう。魅了されてしまう。
文章そのものに惹かれているのか、その人(書き手)自身に惹かれているのか。それは自分でも分からない。
そんな我を忘れてしまうほどの文章(書き手)に出会ったのは、ここ数ヶ月の間では2人だけだ。そのお2人の方は、やはり不思議な読点のつけ方をしていた。だからその文章を何回も読んだ。それが意識的な技なのか、無意識的な表現なのか。何回も何回も、考えながら読んだ。
それでもやっぱり、私には分からなかった。
分からなかったけれど、その方々の文章に出会った瞬間、条件反射的に思ってしまったのだ。
「あぁ、こんな文章が書きたい」
危ない危ない。憧れたらキリがないのだから。
自分を制御しないければ。
それでもいつの日か。
読点を駆使して、含みをもったストーリーを描きたい、と。
そんな野望をこっそり秘めて、今日も文章と向き合っていこうと思う。
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