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それを「なかったこと」にしたから…(自己を見つめる連載⑤)

[冒頭の画像は12~13歳頃の僕。この頃の写真はほとんどない]【2020年9月26日配信】
 前回、ラ・サール中学に入り成績劣等生になった僕が、アスペな言動で寮の先輩たちに目を付けられ、いじめられるようになった姿を振り返りました。続いて起きた事件と、それに僕がどう対処したかを記したいと思います。
(本記事は、9月25日に配信した「42年間封印されていた性被害の記憶」に続く、連載5回目です)

《1学年の違いが大きな差を生む年頃》

 小学校高学年の頃を思い出してください。この時期は女子の方が男子より発育が早く、身長体重ともに平均で男子を上回ります。男子の方が“幼い”のです。その状態で中学に入ります。すると男子の発育スピードが増して女子を追い越し、筋力もついて体は大人に近づいていきます。中学生の頃、体力で男子にかなわなくなったことを知って嘆いた女子も結構いるのではないでしょうか?
 これを男子同士の目線で見るとどうなるかと言うと、この時期の1学年の違いは体格的にも体力的にも相当の格差があるということです。中学に入ったばかりの1年生はまだ幼い体型。それが2年生になるとかなり成長します。人によっては年間で10センチ以上身長が伸びます。私もそうでした。一般的に、1年生男子は2年生男子に体力的にかなわないのです。
 そして体が成長するほどには心の成長はついていきません。体は大人、心は子どもの状態が生じます。そういう状態の中で事件が起きました。

《性犯罪は性暴力》

 加害者は寮で同じ部屋の先輩です。同じ二段ベッドの上が彼、下が僕。彼がなぜ僕に目を付けたのかはわかりません。性欲が昂進する時期ですから性のはけ口を求めていた、ということはあるでしょう。
 でも、それは普通、当時なら“エロ本”で解消されるもので(ネットなど遠い未来の話。DVDすらまだありません)事実、寮内の至る所にそれはありました。一応、建前上は寮則で禁止されていましたが、半ば公然と存在していました。みんなそれで“解消”していたわけです。あの頃の僕らにとってプレイボーイですら“エロ本”でした。
 では、あの先輩はなぜ僕を狙ったのか? 当時はわかりませんでしたが、今考えると、やはり「性犯罪」は「性暴力」だ、ということなのかと思います。性欲それ自体より、暴力で他人を支配することに快感を覚える。あの時、自分の真下にいる僕が寮内で孤立していて、しかもひ弱。“襲いやすい”相手だったんだと思います。
 同じ寮の同じ部屋で暮らし、同じベッドの上下にいる。逃げ場がありません。いっぺん“襲った”ことが既成事実になると、相手は繰り返し襲ってきました。「もうこいつは俺のもの」という感覚でしょうか。そして僕の方にも「もうこの人には何をされてもしょうがない」という不思議な感覚が生まれていました。
 今の私なら当時の僕に「それはストックホルム症候群と言ってね…」と説明してあげるのですが、もちろん当時の僕にそんな知識はありません。そもそもストックホルム症候群の名の由来になった事件から、この時まだ2年しかたっていません。もしかしたらまだその言葉がなかったかもしれません。

《すべてを忘れて「なかったこと」に》

 でもやはり「嫌なものは嫌」だったんです。だから2学期になって寮内で部屋替えがあり、その先輩と別の部屋になって、僕は「これで解放される」と心底ほっとしました。
 ところがその先輩は、別の部屋にいる僕のところにまで襲ってきました。この時、僕は相当激しく抵抗し、ついに先輩を押し返しました。わずか数か月でも成長著しい時期ですから、そのおかげで襲撃をはね返す体力がついていたのかもしれません。それ以後、先輩は二度と僕を襲うことはありませんでした。やはり、自分の力で相手を支配できなくなったと悟ったからかもしれません。
 それにしても1学期の間、僕は寮内で地獄のような日々を送っていたことになります。あの時、僕が取り得る対処は3つありました。
1)大人(親や教師など)に相談する
2)寮を出て下宿に移る
3)そもそもラ・サールをやめてしまう
 中学は義務教育ですから、私立をやめても地元の公立中学に編入することができます。実際、様々な理由で学園をやめていく同級生はいました。でも僕はこれらいずれの対処もしなかったのです。
 その理由を今考えてみると、まず 1)は、相談しなかったというよりできなかったのでしょう。自分の身に起きたことが余りに怖ろしすぎると、恐怖に圧倒されて何も言えなくなってしまいます。2)と 3)については、下宿に移るにせよ学園をやめるにせよ、親に説明しなくてはなりませんから、結局それもできなかったのだと思います。
 では、これらの対処をしない代わりに私が選んだのは「なかったことにする」という方法でした。積極的にそう考えたというより、とにかくそのことを考えないようにした。忘れたかった。すると、本当に忘れてしまったんです。
 おそらく、あの時の僕は、そうしないと心の平安が保てなかった。生きていけなかったんでしょう。12歳の少年にとってはやむを得ないことだったと思います。
 でもその後、年を経て大人になっても、NHKに入って記者になっても、真実の大切さを知るようになっても、42年間も見事に忘れ続けていたのは、あまりにも長すぎました。「なかったこと」にしても本当は「あった」のですから、私の心の中にずっと沈殿していたのだと思います。

《巨大な心の闇》

 それから40年ほどの長い歳月を経て、私はうつ病になり、NHKで休職していた時、職場の精神科の産業医に相談したことがあります。
「何とかよくなりたいんです。カウンセリングを受けてみたいんですが、どうでしょうか?」
 この医師はかなり長いこと私を診てくれて信頼できる人でした。しばらく考えた後にこう語りました。
「カウンセリングは、心の奥に隠れている闇を引きずり出して、その闇と向き合うことで回復につなげようという方法です。でも、相澤さんが抱えている心の闇は、おそらく相当深くて巨大だと思います。それを無理矢理引きずり出したら、相澤さんが壊れてしまうかもしれません」
 私が壊れる、つまり自殺する恐れがあるほどに、巨大な闇を心に抱えているのか…慄然として私はカウンセリングをあきらめました。その闇が何なのか、その時はわかりませんでしたが、後に回復して偶然のきっかけで自分に起きたことを思い出した時、私は感じました。「きっとこれが巨大な心の闇だったんだ」と。そして、それに気づいた時、「自分自身でカウンセリングをしたようなものだから、もううつにならずにすむんじゃないか?」と期待を持ちました。

《中1中2時代の空白の記憶が蘇るのは…》

 そして「なかったこと」にしたことは、もう一つ別の影響として現れました。それは、中学1年2年の時の記憶がほとんどない、ということです。
 この年頃の思い出は誰しもいろいろ持っていると思います。私も事件を「なかったこと」にして、それなりに日々の生活を送っていたのではないかと思います。でも記憶がないんです。性被害の記憶は思い出しても、それ以外のことはやっぱり思い出せません。
 私にとって12歳から14歳ごろまでの記憶は、すっぽり空白のまま。あるいは闇に包まれたままです。そのせいでしょうか、この時期の写真もほとんど見当たりません。
 ところが中学3年の途中から、突然記憶が蘇ります。本当に鮮やかな楽しい記憶が続くのです。それは一体何が起きたからなのか? それがなければ私のその後の人生はまったく違うものになったはずです。
 自己を見つめるヤマ場は、性被害を語る今回よりも、むしろ記憶が蘇る次回からです。できれば早く、あすあさってにも配信したいと思います。

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