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アスペな私が幼稚園になじめず小学校になじんだワケ(連載③)

[冒頭画像は昭和42年(1967年)5月17日。幼稚園の遠足]
 酒での大失態以降、飲酒、躁うつ、アスペルガー、そして記者の仕事について自らを見つめ直す記事を書いています。まずはどうしても酒の話が中心で、次いで躁うつの話題になります。
 しかし人生で現れた順序としては「アスペ」がそもそも持って生まれた障害としてあり、それに付随する形で後から「うつ(後に躁うつとわかる)」や「飲酒癖」が現れたはずです。前回の記事の後、「アスペルガーのことも書いてほしい」というご要望もありました。
 そこで我が幼少期のころを思い起こしながら「アスペな子」の成長を振り返ってみたいと思います。
(本記事は、8月31日にハーバー・ビジネス・オンラインで配信した「公文書改ざん問題追及の元NHK・相澤冬樹記者が泥酔して大失態。改めて考える、自己と向き合う道」、9月7日にnoteで配信した「酒の大失態の後、3日間の禁酒で考えた、躁うつ、アスペルガー、記者の仕事」に続く、連載3回目と位置づけます)

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《幼稚園になじめなかったアスペな子》

 私は幼稚園になじめない子どもだったようです。「ようです」というのは自分自身にあまりその自覚がなかったからです。親はかなり心配していました。幼稚園でのお遊戯や習い事についていけない、友達もあまりできないものだから、「この子は大丈夫だろうか?」と気をもんだようです。幼稚園児にして「浮いた子」でした。今考えると典型的な「アスペな子」です。正式には「アスペルガー症候群」ですが、ここでは略して「アスペ」と表記します。
 ただし、当時はアスペルガーという言葉、発達障害自体がほとんど知られていませんでした。私も両親も私が「アスペ」だとはまったく気づいていませんでした。
 アスペルガー症候群は医学的には知的障害のない自閉症の一種です。人との関わり方がよくわからないため他人に興味がないと誤解されがちで、集団の中で浮いてしまうことがよくあります。悪気なく思ったことを正直に言ってしまう傾向があり、他人とのコミュニケーションが苦手です。体を動かすのも不得手ですが、記憶力はよく、自分の興味があることに高い能力を示すことがあります。

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 一見して「ちょっと変わった人」程度に見られることもありますが、社会生活を送る上で困難さを抱えている点は自閉症と共通で、両者を合わせて「自閉症スペクトラム」とも呼ばれます。気持ちが周囲に理解されず、引きこもりうつになることもあります。これはアスペが原因で引き起こされる「二次障害」と呼ばれることもあります。

《アスペな私を気づかってくれたイタリア人の神父様》

 幼稚園になじめない私のことを気づかってくれた方がいました。ピッチ神父様です。私も両親も周囲もみな「神父様」と呼んでいたので、もはや名前の一部と化してそれ以外の呼び方ができません。

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[出身地サルデーニャで兄弟と並ぶピッチ神父様(左端)]
 私の両親はカトリック信者で、私も幼児洗礼で信者となり、幼稚園は宮崎市内のカトリック教会付属の幼稚園に通っていました。ピッチ神父様は両親の実家がある宮崎県西都市の教会の神父でしたので以前からご縁があり、宮崎の教会に来た時に私を車に乗せて誘い出してくれることがありました。幼稚園で孤立しているのがわかっていたからだろうと今にして思います。

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 イタリアのサルデーニャ島のご出身で、若くして日本に派遣されて長いこと西都で暮らし、信者以外の方からも慕われていました。ご逝去されて今は故郷サルデーニャの墓地で眠っていますが、西都のカトリック墓地にも遺品が収められています。

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 両親はお墓参りのため、サルデーニャの神父様の故郷を訪ねたことがあります。地元のご親族の方々に大歓迎されたそうです。父は「イタリア語を覚えてまたサルデーニャに行く」と意欲を燃やし、2度目の訪問を実現させましたが、イタリア語の方は「ボンジョルノ」程度を大きく越えてはいなかったようです。「もう一度行く」と張り切っていましたが、去年暮、12月30日に86歳で永眠しました。

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[父に抱かれる私・昭和40年(1965年)9月23日、当時2歳]

《小学校での成績の良さがアスペ問題をかき消した》

 私が小学校に入る際、母は私が授業についていけるか心配し、問題集のような教材を用意して私にさせようとしました。私はそれがいやで、問題集の後ろの回答を見てお茶を濁していました。その回答の中に、模範解答例としてひらがなで「れい」と書かれているところがありました。その問題を見て母親が考えている時に私は「れいでいいんじゃない?」と、「れい」の意味をわからずに間抜けなことを言った覚えがあります。

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[母と私。昭和42年(1967年)8月26日、鹿児島県指宿に家族旅行中]
 ところが小学校に入って1年生最初の通知表。私は今でもその評価を覚えています。こういうところがいかにも無駄に記憶力がいいアスペな子です。
5段階評価で、5,5,5,5,4,5,3。順に「国語、算数、理科、社会、図画工作、音楽、体育」です。記憶力のよさが成績を大きく左右したのではないかと思います。これで親はすっかり安心して、以後、私に「勉強させる」ということを忘れてくれました。
 ところが母は勉強のことは忘れてくれましたが、ピアノの練習は忘れませんでした。私は3歳くらいのころからピアノを習わされていたのです。母自身が高校時代に合唱部で伴奏するなどピアノが大好きだったからでしょう。自宅にピアノがありました。

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[自宅でピアノを弾く私。昭和42年(1967年)8月13日。背後に母が写っている]

 でも昭和40年代の宮崎で小学生男子がピアノを習うというのは相当珍しいことだったはずです。向かいの家に住む同学年の友達が遊びに来ても「ごめん、ピアノの練習があるんだ」と答えねばならない悔しさと恥ずかしさ。私はピアノが嫌で嫌で仕方ありませんでした。
 小学校でも私が「アスペな子」であることに変わりはなかったはずです。例えば通知表には毎回、先生の所感として「落ち着きがない」と書かれていました。発達障害の一つ、ADHD(注意欠陥多動性障害)の特徴が現れていたのだと思います。

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 ですが、何か一つ秀でたことがあると、校内で一目置かれます。一番は「運動万能」、中でも「足が早い」と学校のスターになれますが、アスペな私は運動音痴でした。それでも成績が良かったことで学校生活が楽になりました。幼稚園の時に孤立したのは「勉強の成績」という指標がなかったからで、その指標がある小学校は私にとってはまだしも生きやすい空間でした。もっとも、そういう「何か一つ」がないと、小学校は往々にして「生きにくい空間」になります。
 そして「成績がよくて弁が立つ」けど「落ち着きがなくて教師の言うことをきかない(聞いていない)」子どもというのは、教師にとってはなかなか厄介な存在だったと思います。小学校では担任の教師との相性が校内生活を大きく左右しますから、合わない先生が担任だったときは散々でした。でも小学校最後、6年生の時の担任の先生とは相性が良かった。これが人生を左右しました。

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[近所の友達を招いて自宅でお誕生会。昭和44年(1969年)10月29日。アポロの月面着陸の年。小学1年生、7歳]

《私の人生を変えた先生の名は…》

 小学6年生になると中学校進学が近づいてきます。そこには私にとって一つ大きな問題がありました。当時、宮崎市立の中学校では男子は「全員坊主」だったのです。
 坊主頭になんかなりたくない! そのための選択肢は当時の宮崎では、宮崎大学附属中学に入るか、私立の日向学院中学に入るか、道は2つしかありません。付属中は試験の後に抽選があったため、確実に入れるかどうかわかりません。私立に行くしかないのかなあと思い始めていた6年生の2学期、担任の先生が言いました。
「相澤君、君はラ・サールという学校を知ってるかい? ラ・サールを受けてみたらどうだい?」
 私はそれまでラ・サールの存在を知りませんでした。でも試しにどうだと言われて模擬試験を受けてみました。すると自分の知らない問題が山ほど出て、成績がかなり低かったのです。人口急増で児童数がおそらく日本有数の1500人以上はいたであろう宮崎市立大宮小学校で、ほぼ毎回トップに近い成績だった私にとっては、これはかなりの衝撃でした。「世間は広い。上には上がいる」ということを知りました。

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[私が通っていた頃の宮崎市立大宮小学校。人口急増で巨大学校だった]
 そこで親に頼んで進学塾に初めて通いました。ここで、生涯の友の一人となる岩下明裕(現北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター教授)という男と出会います。翌年2月の入試で岩下とともにラ・サール中学に合格。両親は元々は中学から私を親元から離すつもりはありませんでした。でも私は入試の時に見た寮での生活が楽しそうで、「毎日が修学旅行みたいだ」ととんでもない勘違いをして、ラ・サール進学を決めました。私の中には「寮に入ればピアノをしなくてすむようになる」という思惑もありました。
 こうして半年前まで存在も知らなかったラ・サールに入学したことで、私の人生は良くも悪くも大きく変わります。そのきっかけを作ってくれた担任の先生の名前は「赤木」先生です。今、最大の取材テーマである「財務省公文書改ざん問題」の当事者、赤木俊夫さんと、妻の赤木雅子さんご夫婦と同じ名字という偶然。何だか深いご縁を感じます。
 赤木先生は小学校教員の傍ら、詩人としても活躍し、地域社会の名士的な存在でした。卒業以来45年、一度もお会いしていません。父と同い年でしたから今は87歳のはず。数年前、宮崎市の繁華街にある行きつけのバー「続人間」のマスターに伺ったところ、「お元気ですよ」ということでしたが、今はいかがお過ごしでしょうか? できればぜひお会いしたいと思います。
 さて中学に入ると、いよいよ私のアスペな人生が本格化します。それは次回以降にご紹介するとして、今現在の問題である「酒はどうなったんだ?」という声にもお答えしたいと思います。

《禁酒10日間で「条件付き」解禁》

 かかりつけの精神科医を9月8日に受診しました。その前日まで私は医師の指示で10日間禁酒していました。初めてうつ病で休職した際に1年近く禁酒したことがありますが、それを除くと人生でこれほど長く酒を抜いたことはありません。でも特に問題なく過ごすことができました。
 診察の結果、「たぶん大丈夫ですけど、念のためアルコール依存症の専門医の診断を受けましょう」ということになりました。紹介された専門医の中に、私がNHK時代に取材でお会いしたことのある方がいたので、そこに行くことにしました。
 その専門医のクリニックと連絡をとった結果、次の受診日まで、酒については解禁されることになりました。ただし、毎回自分が何をどれだけ飲んだか記録を付けて、受診日に報告するという条件付きです。
 この日の夕方、久保田徹くんと合いました。私のことを撮影して映像作品を作ろうとしている24歳の映像作家。私が酒で大失態を演じた後、謝罪の動画を撮ってくれたのは彼です。話を終えて久しぶりに一緒に呑みに行きました。その様子も彼は撮影しています。
 行きつけの呑み屋で注文しながら、スマホのメモに呑んだ酒を記録します。これが意外に歯止めになることに気がつきました。メモを書くのに手間がかかるから、その分飲むスピードが落ちますし、自分がどれだけ呑んだか客観的にわかって量が抑えられるからです。
 連続飲酒を避けるため、間になるべく禁酒日を挟むことにしました。そして仕事前には呑まない。これで酒と折り合いを付けながら人生を過ごしていこうと思います。

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[祖父のナナハン(750ccバイク)にまたがる私。よく乗せてもらった。昭和40年(1965年)9月23日、当時2歳]

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