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時代掌編 『さみだれ佐平』

 ………どんな小さなものにも命って奴はある。
 深川は冬木町の暗がりで、佐平は考えていた。蛙が鳴く。夜の空から落ちてきた雨粒がつま先を濡らす。
 大した話は、佐平の頭からは出てこない。昔、近くに住んでいた坊主が言っていた。犬だろうと鼠だろうと、蟻だろうと、どんなものにも命って奴は宿っている。いや、その辺に転がっている石にだって命の種子たねは眠っていると。
 夜鷹を買い、博奕をする坊主だったが、説教だけは一人前だった。
 家の中、お咲の小さな叫びが聞こえた。
 佐平は両手で耳をふさいだ。
 ………どんな小さなものにも命はある。理由もなくそれを損なうのは罪だ、地獄に堕ちる。
 酒を飲みながら言った坊主は、すぐに寝転がり、いびきをかきながら屁を垂れた。飛びきり臭かった。

「どんな具合だ?」
 佐平は顔をあげた。
 ふところ手の金蔵が佐平を見下ろしている。肥満し突き出た腹は、巨木のように太かった。
「さっき、高橋の旦那が入られました」
 佐平が言うのに、
「旦那も好きだな」
 金蔵は唇を歪め笑った。「俺も後でご相伴しょうばんにあずかるかな」
 佐平は泥に目を落とした。
 軒から落ちた雨垂れが金蔵の傘を打つ。
 ここ三日、五月雨さみだれが降り続いている。水嵩が増え、すぐ近くを流れる堀川の音も大きくなっている。
 粗末な戸の向こうで、お咲のむせぶ声が聞こえた。
 夜が明けたら、金蔵が売りにいく娘だ。金蔵は目明かしの片手間に女衒ぜげんをしている。彼に手札を出しているのが、同心の高橋だった。
「こりゃあ初物はつものだったかな」
 障子戸の向こうの音を聞きながら金蔵が言った。「売り物になるまでには、ちょいと手間がかかるな」
 ………だから逃げろと言ったんだ。
 酒喰らいの馬鹿親がこしらえた借金など知ったことじゃねえ、さっさと逃げちまえ。大川を渡ったずっとずっと先の町にでも隠れて、名前を変えて生きれば良い。
 佐平が言うのに、お咲は頭をふった。あたしは、そんな器用なことはできない。性分じゃないのよ、と。

「この分じゃあ、長くかかりそうだ」
 金蔵は言った。「俺はその先の店で飲んでいるからな。旦那が終わったら呼びに来い。おい、聞いてるのか?」
 下駄の先で佐平の足をつついた。
「へえ」
 佐平は答えた。
「お前まで抱こうなんて考えるなよ。そんな真似すると、ぶち殺すからな」
「分かっています」
「まったく愚図ぐずな野郎だ」
 舌打ちをして、金蔵は路地を出ていった。
 裏店はシンとしている。夜なべの仕事でもあるのか、井戸の横の家にだけ薄暗い灯りがともっている。
 皆、今夜お咲がどんな目に遭うか知っている。見て見ぬふりをするのが、自分の貧しい暮らしを守る方策であることも。
 ………クズだな。
 佐平は笑った。世間はクズだ。高橋の旦那も金蔵もクズだ。奴らの手下として生きてきた俺は、もっとクズだ。生まれ育ったこの町で、幼馴染の娘が損なわれる、その見張りをしている。
 ………死ぬのは一度きりだ。
 あの腐れ坊主が言っていた。
 次など無い、この世で起きることは皆、取り返しのつかないことだ。それだけを覚えておけ。
「ああ、ねえな」
 佐平はつぶやいた。
 お咲があらがったか、高橋が低い声で脅した。肉を打つ音がして、お咲が悲鳴をあげた。
 佐平は立ちあがった。背筋が鳴る。
 蛙が鳴くのをやめた。
 戸を開けると、高橋の生白い尻があった。その下でお咲のすねが暴れていた。高橋の刀は部屋の隅に転がっている。酒の匂いがする。
 雨音が佐平の気配を殺していた。
 懐には匕首があった。近所の者どもを脅すために持ってきたものだった。
 俺にだって喰らいつく歯もあれば、掻きむしる爪もある。お前たちは見くびっているだろうが………。
 薄闇の中、匕首の刃がぎらりと光った。
 佐平は静かに部屋にあがった。

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