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「遺影にしようね」なんて。


「遺影」を「自分の今の姿」と捉えて。


わたしは大切な人たちの前では
隠さずこれからもこの話をしていきたい。



最近、お世話になっている方と
終活や遺影について話す機会がありました。

自分の今考えている
「遺影」についての思いを
少し書き留めておこうかなと思ったので
これをわたしのぽつりと。としてのこします。



いつからか自然とそうなって
もう数年が経ちましたが、
10数年、衣食住を共にするパートナーとは
旅でお互いの気に入った写真が撮れると
「これを遺影にしようね」
と毎度のようにかわします。

決して冗談でもなく、至って真面目に。
かといって、
その言葉の根源に
悲観的な気持ちがあるわけでもなくて。

自然災害の怖さを実際体感はしてなくとも
実際に起こっている現状をTV越しに感じ
何があるかわからない
誰にもわからない今だからこそ
何かあったときのために
彼らしい、わたしらしい写真が撮れたら
この姿を最期の遺す姿にしよう。

そう思ったことをきっかけに、
今では それを撮ろう
と思って行動しているわけではありませんが
どこかに遊びにいって
お互いの写真を撮って
「これいいね!」と見せ合って

「じゃあこれで遺影更新だね」と
自然に会話を重ねます。


遺影は最期のときの
大切な人たちにお見送りしてもらうときの
わたし自身を象徴してくれるもの。

だから
自分たちが自分で納得して
自分らしいと思えた顔。

そんな写真が一番だと思っています。


毎日元気だとしても、
いつ何があるかなんて誰にもわからなくて。
そんなのきっと誰だって思っていると思う。

災害のことだってそう。

何かきっかけがあって
「気をつけなきゃ、準備しておかないと」と
そうやって毎度思うけど

いくら怖がっても、悲しんでも
当たり前のようにやってくる日常に
慌ただしさにまぎれてしまって

それに慣れるとまた薄れていってしまう。


例えば、母と自分だとして。

母の歳が遥かに上だから
だなんて事実があったとしても
リスクや可能性が高い状況だとしても
災害が起こったら、実際どっちが先になんて
本当にわかりっこないんですよね。


このコロナ禍を通して
会ったことはないけど、
毎日TV越しに見ていた人がいなくなっていく。

そこには歳なんて関係ない。

誰がこんなことを予想できたんだろう
なんて、驚かされてきた。

直接知り合いじゃなくても
見覚えのある人がいなくなった現実は
なんだかとても哀しくて
沈んだ気持ちが続くこともあったけど、

その人が出ていたCMやTV番組に
代わりの人が出て、
当たり前だった風景が少しずつ
また別の当たり前に塗り替えられていく。

少しずつ薄れていって、いつか忘れていく。

人間の脳は全てを鮮明に覚えておくなんて
絶対できっこなくて。

日々インプットすることも常にあったり
たくさんの情報に囲まれて過ごしていたりするから

吸収したもの全てをずっとは覚えていられないし
日常的に触れていないものは
薄れていってしまうのは当たり前なんだけど。

なんだかな、かなしいな。

そんな自分が薄情にも思えてくることもある。
こればっかりは仕方ないことだろうけども。


なくなった人は元には戻らないけれど
なくなった人の印象を残しておくことができるのは
残っている写真や動画データ
そして家族が大切にする一枚の遺影。

今では誰でも簡単に写真を
綺麗に撮れるようにはなってはきたけど
それにしてもあれ?って思うことがある。

看護師をしていたときや
自分の家族の死に向き合った過去
最期、お見送りするときの写真を
本人が選んでなかったり
なくて困ってたり
なんてしてることもしばしば。

突然起きる自然災害で急に命を落とし
直近の写真がない、見つからない
なんて困っていることも実際にあるんです。

日頃からの写真の整理やデータの整理はもちろん
そんな話を実際にしている人って
全体比でいうとどれくらいいるんだろうか。

いなくなった後じゃどうすることもできないから

子どもが明日学ぶ教科の準備をするように
大人が明日の仕事の準備をするように
遺影も準備しておければ。と

そう思うんです。



それってよくよく考えたら
当たり前なんだけど
当たり前じゃない。

触れてはいけないタブーのような区域にある、
本当は誰でも頭の片隅にあるもの。

だけど生きている限り
絶対向き合う日が来ること。

自分じゃなくても
自分の大切な人が向き合わなければならなくなること。

だったらどうせなら
その人らしい姿で
できたら一番本人が楽しんでいる瞬間や
満足いく姿を遺しておきたい。

わたし自身は母にそうしてもらいたいし
自分に何かあったときは
自分が選んだ写真を使ってほしい。

だから
「わたしたちは定期的に遺影更新してますよ」
なんてさらっと口にするんです。


隠しているわけでもないから
この話を知人にすると
「縁起でもない」なんて笑われたことや
ちょっと怪訝な顔されたことも。

考えは人それぞれで、それでいいと思う。

ただ、
こうやって考える人もいるんだよって。

いつ何があってもいいように
やり切って過ごしたいし
パートナーの”らしい”笑顔を遺しておきたい。


「見てみて!これめっちゃいい写真が撮れた!」

「ほんまや!遺影これに変えようかな」

そう思えるのって
そのとき自分の顔を見て、
本当に思わないと言えないことで。

一番はじめにパートナーの口から
そんな返事が返ってきたとき
自分の表情を自分で確認して
今この瞬間が楽しいと思えていることに
とても素敵だと思ったんです。

そうやって笑いあって
最期の姿にしてもいいと思える
そんな瞬間をたくさん過ごしたい、

最期になってもいい「今」を大事にしたい
そう感じています。


わたしの今現在の遺影候補写真は
アカウント写真にしている
カメラを持った一枚。
大好きな地元の海の前で
大好きな青色をまとっているように
カメラを持っている
自分らしい一枚だと思っています。

今のところ
これよりびびっとくる写真が
まだ撮れていないので
この写真をなにかあったときには、と
パートナーや母に伝えています。


自分が写真を撮るようになって
母から
「わたしも撮っておいてもらわないとね」と
笑って言ってくれることもあったり

友人の写真を撮ったときに
友人のパートナーから
「あの日撮った写真が気に入ってるみたいで
何かあったらこれを遺影にしてね、って言ってたよ」
なんて教えてもらったり

この考えが万人受けするものでなくとも
少なくとも何か響くものもあるんだなと
感じることもあったりで

わたしはこれでいいのかな、なんて。


わたし自身も元々写真を撮るのは好きでも
撮られることはどちらかというと苦手。

歳をとるにつれて
太ったり、シミができたり
少しずつ変化する自分に
ちょっと嫌だなーって思う時ももちろんあるけど
(努力し続けることって大事!と思ってます笑)


だけど昔から必ず
パートナーであったり
大切な人たちと遊んだり集まったりするときは
集合写真を残すようにしています。

どんなわたしでも
やっぱりこの場にいること
この楽しい時間にいたことを
残しておきたいなと思うんです。


もしこのnoteで
なにか響くものがあったら
今は本当に携帯の画質も
数年前に比べて段違いに綺麗になってきたので
カメラマンに頼むほどじゃなくていいから
自分で大切な人を撮ったり
自分を大切な人に撮ってもらったり
自分らしくいられる、らしい姿や時間を
たくさん撮ってのこしてほしいなと思います。



「遺影」を「自分の今の姿」と捉えて。

わたしは大切な人たちの前では
隠さずこれからもこの話をしていきたい

なんて、今はそう思っています。















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防災いまできること

2019年に発覚した潰瘍性大腸炎とゆるく付き合っている、見た目はちきん・メンタルありんこHSP気質の元看護師です☺︎今は元より好きだった【言葉と写真】で活動してます。私の発信が誰かの励みになれば嬉しいです。みなさまのサポートは、今後の発信や活動に使わせていただきます。