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子どもの世界は私には見えない

なんでか分からない

私も小さい頃はそうだったのかな??

昨日は一週間に一回の学習ボランティアの日だった。
先週と同じ女の子の担当。
先週よりかは、少しだけ(微々たるものだが…)距離は縮まった(気がする)。
相変わらず、私の言葉に反応する表情は薄いが……。
確実に先週よりかは良くなっている😐

妹も同じところに通っているのだが、妹と話しているときはテンション高し。慣れているもの同士だから当たり前だが。
自分は何者か、曝け出しながら何とか近くなっていく。
まぁ、教員あるあるだと思うが(笑)
自主勉ノートを持って来て、どのようにノートを使うか、試行錯誤しながら自分なりにノートを作っている様子を見ていた(指導は少なく)。
教えたくなるし、指摘したくなることもあるが、ぐっと我慢‼
それが、本人にとってこれからに繋がっていくと信じて。

教えてしまえば簡単だが、こちらが待つことは教育の一環として大切だと思う。
どうしても分からない、困っているときは、例を示しながら。
なかなかそこの匙加減が難しいが、それも仕事だ。

私が子どもだった頃は、できが悪く、色々な先生を困らせた。
それでも待ってくれるのは、嬉しくもあり、温かみもあった。
昨日担当した女の子のように静かではなかったが、なかなか真っ新なノートに向かって、思いのまま使うことには難しさを感じて騒いでいた。
もしかしたら、表面は異なっていても、内面は同じ部分があったかも。

何を求めて

今現在は毎日学校へ行って、支援員として働いている。
基本的に特別支援学級で子どもたちの支援をしている。
もともと、免許も学級担任も特別支援教育なので、全く抵抗はなかった。
しかし、立場が違う今、どこまでが求められているのか――悩む😩

なかなか学習に取り組めない子、教室を飛び出してしまう子、イライラが募って手や足が出てしまう子――色々な子がいる中、今の学校のスタンスと、私が今までやってきたスタンスが、どうもかみ合わない。
私が合わせなければ、と思うのだが、一つ事が済むとまた次の事と、永遠に続いて切れ目がない。
学習も一斉にプリントをやる感じ(内容に違いはあれど)。
うん、子どもたちも飽きてきてしまっているのか……??

今日は一人の子がなかなか学習に参加できず、決まった時間に事が済まないことが多くあった。その場合どうするべきだろう??
前々任校で教わったのは「個別に約束はしない。約束をすると守らせなければならなくなり、どちらも苦しいから」とのこと。
今も大事な考え方として持っている。
ブロック遊びから学習へ移行するとき、時間を一緒に決めるが移れない。

一緒に決めたから守らせるべきなのか、それとも活動内容が本人に合っていないからなのか、興味と合致した学習になっていないからなのか――。
常に頭の中でグルグルグルグル考えるが分からない。
さらに担任、教員の立場ではない。どこまで介入してよいものか。

こういうことって、多分にありありだよねぇ

子どもの立場になると

何がきっかけで立ち上がるのか??

常に考えていたら、家に帰って一時間も寝てしまった(笑)
おかげで市社協への訪問にちょっぴり遅刻してしまった💦

教えなければならないことはたくさんある。
学習指導要領上、仕方のないことである。
しかし、それはプログラムに沿ったもので、子ども主体ではない。
与えられたプログラムに乗っかり、立ち上がれる子は少ない。
私はもちろん立ち上がれなかった(笑)

やはり学習する習慣がつき始めたのは大学生。
自分の興味のあることを専攻したから。

「基礎基本がわからなければ、応用なんてことはできない‼」
なんて言われるがそうだろうか??
興味をもったものから、自ら調べ、考え、実行していくプロセスは、教えずとも子どもらが独自にやっていることではないか。
必要最低限の読み・書き・算があればどうにでもなるのではないのか。

いよいよ実行にうつるばあいに、子どもが手本から離れて自分自身の作像に頼ることができないかぎり、子どもは奴隷にされているのであり、隷従者にされているのであって、発達せしめられるのではないのである。模倣は支援し助力するために来るべきもので、手引きをするために来るべきものではない。

「学校と社会」(著:デューイ / 岩波文庫 / 第5章 フレーベルの教育原理)

私はあくまで支援者として、子どもが主体的に活動できる支援をしたい。

好き嫌いは分かれるかもだけど、俯瞰する時に読むと「なるほどな💡」と思える一冊

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