HOTEL J【短編小説】

ある夏の暑い日、男はホテルの一室でワイングラスを傾けていた。中身はイタリア産の赤ワインと錦糸町の哀愁が五対三の割合で入っている。残りの二割は『  』である。名前はまだない。
 男がその液体Aを飲み干し、液体Bを催したためにソファを立ち、床に置いてあった液体A{C}の瓶に躓いたところで、ドアがノックされた。

 狐、狐。間違えた。コン、コン。

 男は足元を濡らしながらも平然としたニヤケ顔で鍵を開けた。中に入ってきたのは汚いモナリザだった。勿論、ヴィンチ村のレオナルドさんが生み出した、美しいアレではない。
ただのロン毛真ん中分けの、眉のない女だ。でも悲壮感だけはアレに匹敵、いや勝るものがある。むしろ圧勝。試合だったらつまらない、そんな風である。

 待っていたよ。

 男はなおも足元を濡らしながら平然として落胆の表情を浮かべた。

 待ちくたびれて何もする気が起きないんだ。悪いんだけど、帰ってくれないか。ぼぉーん。間違えた。ほら。

 男は法螺の音を真似ながら、札を数枚、汚いモナリザに差し出した。その汚ナリザは本物のモナリザよろしき微笑をたたえ、それを受け取った。男は差し出された汚ナリザの手が土まみれになっているのに気が付き、汚ナリザは自分の手が土まみれになっていることに男が気が付いたことに気が付いてこう言った。

 穴を掘っていたんです。

 穴?

 ええ。昨晩、違うお客さんから日本の反対側はブラジルだと聞きましたの。母国なんです。ブラジル。それで、ここに来る途中にすごく掘りやすそうな土壌を見つけてしまって。掘り進めたら反対側に出られやしないかと思って、掘っておりました。暫く掘って、お客さんを待たせていることを思い出して、急いでここに来た次第です。

 別に穴なんか掘らなくても、飛行機で帰ればいいじゃないか。それこそ……

 「それこそANAで」と言おうとして男は口をつぐんだ。JALに悪いからだ。

 ええ。ただ、交通費も惜しいくらいなのです。父が死に、母が病に伏していて、弟も年頃になったので学校に行かせてあげたいのですが、やっぱりお金が足りなくて。でも、私ももう限界です。いつまでもこんなとできるはずない。そう思っていた矢先です。弟から連絡が来て、母が、お母さんが……。すいません、こんなことお客さんには関係なかったですわ。

 そう言ってモナリザは微笑んだ。男はそのとき、激しい衝動を感じた。一瞬で足元が乾くほどの激しい熱風が吹き荒れたのだ。その痕跡は今でもHOTEL Jの206号室のカーペットの焦げとして残っている。
 男は女をグッと抱き寄せ、バッと押し倒し、ドサッ、ブチュッ、ビリッ、スーッ、ゴーッ、プップー、ガヤガヤ、ガタンゴトン、ギーッ、プシュー、ドタドタ、ダダダダ、ピコーン、ガサゴソ、チャリーン。あ、小銭落とした。といったようなことをした。
 そのときの男は炎であった。その焔により、女の髪と女に持たせた数枚の札が燃え尽きてしまったのは言うまでもない。しかし、二人とも、非常に幸福だった。本当に非常だった。非常に非常だ。逆に普通だ。あ、「何でもないことが幸せ」ってそういうことか。

 ヤクルトの乳飲料。

 ジョア?

 間違えた。じゃあ。

 どっちでもいいわ。本質は一緒だもの。

 そうだな。俺は最初から間違えてなどいなかったのかもしれないな。

 きっとそうよ。

 ジョア。

 ジョア。

 次の朝、二人は別れた。
 女はHOTEL Jを出、丸坊主になった頭を日光に晒しながら歩いた。一歩一歩、地を踏みしめるたびに頭の中の黒いもやが晴れていくのがわかった。女はそのまま出家することにした。もうブラジルや家族や男のことなど綺麗さっぱり忘れていた。
 
 男もHOTEL Jを出た。しかし、足元はおぼつかず、瞼も開けられなかった。それでも男は歩みを止めなかった。時には膝から崩れ落ち、熱いアスファルトを這い、鋭い石に顎を削られたが、それでも前に進んだ。もう力尽きてしまいそうなそのとき、這わせていた両手から地面の感触が消え、全てから解放されるように体が宙に浮いた。
 男は穴に落ちていた。すごくすごく深く、生暖かく湿ったそこにいつまでもいつまでも落ち続けた。男はじりじりと燃えていった。そして気の遠くなるような時間が経ったころ、男は灰になって消えてしまった。

 ここは太陽の国である。