球数制限なんてクソくらえだ

近年、高校野球をはじめ学生野球界隈では球数制限の議論が活発になされている。曰く、「未来ある球児の身体を守るため」に球数制限を導入しよう!ということだ。が、球数制限については俺はこう叫びたい。「クソくらえだ」と。

言いたいことはわかる。「投手の肩は消耗品」という言葉があるように、投球過多はおそらく投手にとって良くない。斎藤佑樹や島袋洋奨が甲子園や大学野球での酷使されることなくプロに進んでいたら、どれだけの成績が残せただろうか? そう考えることは俺にだってある。

けれど、それは彼らのような「将来」が高い確率で保証されている選手にとってだ。高校で野球している選手のうち、プロになれるのはほんの一握り。大学や社会人のトップで戦うような選手を含めても、ほんの数パーセントだろう。競技としての野球は高校で終わりと思っている選手のほうが、きっと多い。

制度は個々人の都合によらず、一律に適用しなければいけない。野球を続ける「将来」が保証されている選手たちと同じように、「将来」などなく「今」に懸けている選手たちにも適用されるということだ。たしかに、「酷使」の犠牲となった斎藤や島袋は不完全燃焼だろう。「球数制限」が制度化されていればそうはならなかった可能性が高い。しかし、「球数制限」が制度化されることによって不完全燃焼になる選手もいるのだ。

「球数制限」を声高に叫ぶ人は、「将来」がある選手が華々しい舞台で輝く姿が見たいだけなのではないだろうか? 「将来」のない、地方の弱小校の125km/hくらいしか出ないエースのことなんて、知ったこっちゃないのだ。それが本当に生徒のためなのだろうか? 「酷使される前に負けてよかった」などと言う人が当たり前にいる野球界でいいのだろうか?

「酷使」は間違いなく良くない。しかし、この現状をどのように正していくべきかはもっと議論される必要がある。少なくとも、「球数制限」のような場当たり的な解決策が最善だとは、とても思わない。

まず「酷使」がなぜ起こっているかを考えなくてはいけない。様々な要因があるだろうが、一番は「投手は投げたい」からだろう。多少無理してでも勝ちたい、そのために投げたいというプライドがあるのだ。だから、「それを止めるのは大人の役目だ」と、制度化が求められ、酷使した指導者は批判される。だがこれは「『はたらくくるま』の中に戦車があるのは不適切!」のようなもので、抑圧しとけばそれでいいだろう、という安易な手段であり、根本的な原因は何も解決していない。

俺が考える原因は2つある。1つめは、「選手が自立していないこと」だ。自立した選手を育てられていない、という指導者の問題に置き換えても良い。たしかに、選手は投げたいだろう。しかし、投げても良いかというのは別に考えるべきだ。「将来」を考えるのであれば、彼らにはこの先何度も自分で考え決断しなければならないときが来る。進路だってそうだろうし、選挙だってそうだろう。それと同じように、考えなくてはいけない。自分はいま投げられる状態なのか、投げたことによるリスク、投げずに負けた場合の後悔……答えはないだろう。それでも、自分で考えて答えを出すということが大事だ。

2つめは、体育会系(とくに野球界)に根強い強い上下関係だ。自分で考えるべきと言ったが、実際の起用は指導者の一存によって決まることが多い。選手が「投げられない」と言っても監督が「投げろ」と言えば投げるし、その逆もまた然りだ。だがこれは指導者のあり方としてまったく正しくない。指導者とは、リーダーだ。組織におけるリーダーとは、組織としての意思を決定する存在であるべきだ。決してリーダーの意思が組織の意思になるわけではない。自立した選手たちと議論し、自分たちがどう進むのかを決定する。そういう存在であるべきだ。もし酷使を防いだのだとしても、それが選手たちの意思を無視した一存で決定したのであれば、それは批判されるべきだと思う。

指導者が批判されるべきは酷使したことではない。批判されるべきは、自立した選手を育てられないこと、対等な関係を築けなかったことだろう。指導者はその競技を通じて選手を自立させ、互いにリスペクトして、チームの意思を統一させる存在であるべきだ。

「酷使」は「球数制限」によって防がれるべきではない。「今日は俺は投げない」「今日はあいつは投げなくていい」という、チームを構成する一人一人の意思によって防がれるべきだ。

しっかりと判断し、自分に責任を負える選手を育てる。それこそが、学校教育の一環である部活動で、野球をする意味なのではないだろうか。

#高校野球

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