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語る人がいなくなった戦争の話

お盆で終戦記念日のこの時期は太平洋戦争から生還した亡き父のことを書く気になるのだが、6年前に書いた文がfacebookで思い出として挙がってきた。
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70年前の今日を父は知覧の特攻基地で迎えた。
三男坊でいらん子だった父は、陸軍に徴兵される前にと17歳目前で海軍に志願した。少なくとも海軍では死ぬ時は将校も二等兵も一緒だからという理由で。上のお兄さん二人は結局徴兵されてあっという間に戦死してしまった。父は乗っていた船が2回も撃沈されたが、しぶとく生き延びてもう乗る船がなくなり、知覧に行って特攻隊員に通信を教えていたそうだ。同世代の学士さんたちを見送るのは辛かったと言っていた。

生き残った父は戦後は公務員として律儀に働いて私たちを養い、隣の奥さんが父の帰宅する足音を時計代わりにするほどだったが、55歳で退職して大阪から赤穂にやってきた。小さなボートを入手して自分が乗っていた戦艦の名前をつけた時には家族はびっくりした。それまで戦争のことは話したことが無かったからだ。

子どもは女ばかりだったので何も聞いたことがなかったが、婿さんが赤穂に来た時はお酒のあてに戦争の話を時々していた。それを傍で聞いていて、よく生き延びて帰ってこられたとびっくりした。赤穂に来てからは好き放題に生きていたが、死ぬまで反戦主義だった。憲法第九条は大したものだ、と言っていた。私も第九条は素晴らしいと誇りに思っている。日本は紛争の解決に武力を使わない国なのだ。
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この小さなボートの名前は「千代田」といった。今年はコロナと豪雨で暇なお盆なので、この船のことを調べてみたら意外な事実がわかった。
「千代田」は1944年連合艦隊が事実上壊滅したレイテ沖海戦で沈没し、乗っていた総員が未帰還となっていたのだ。「千代田」は父が乗っている時に沈んだ船ではなかった。勘違いしていた。
家族は自分が乗っていた船の名をつけるなんて、お父さんってけっこう海軍が好きだったのね、なんて軽く言ってたけど、あれは船ではなく総員死んでしまった仲間への追悼の思いからつけた名ではないかと思い至った。

千代田は1940年より特殊潜航艇搭載艦として活動していたが、1943年に10か月をかけて空母に改装された。父は千代田のことを人間魚雷の前身を積んでいた船だと言っていたから、乗っていたのは1943年より前のことなのだろう。生え抜きの通信兵は貴重な人材だったはずだから、改装されている間に船を乗り替わったのかもしれない。いったい22才で終戦を迎えるまでに何艦の船に乗ったのだろう。最後には何という船に乗っていたのだろう。もしかしたらレイテ沖海戦で違う船に乗っていて、少年兵として初めて乗艦したのだと思う千代田が沈没するのを見たのかもしれない。今となっては知るすべのないことだけど、もっと生きているうちに話を聞いておけばよかったと後悔している。

少年志願兵として海軍に入ったのは、陸軍と違って海軍は死ぬときはみな一緒だからという理由はいかにも父らしいと思ったことがある。少年兵は通信担当で実戦に参加することはなかったとも聞いた。きかん気で反骨精神の塊だった父は、生き延びるために16歳で海軍に入りそれは正しい判断だった。海戦ではたとえ船が沈んでも僚船が救助活動してくれるから全員が死んでしまうことはめったにない。でもあの太平洋戦争末期の海戦は今読んでいても無謀としか思えない異常な話だし、人間魚雷とか特攻隊とか何かが狂っていたとしか思えない。

これは過去の話だが別の世界の話ではない。今でもミャンマーやベラルーシやアフガニスタンで何かが狂っているとしか思えない話を聞く。でも私にできることは何もなく、この8月が終われば、来年の今ごろまで昔の戦争のことは思い出すこともないだろう。

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