西郷竹彦先生 國分一太郎先生 カウンターでお寿司の思い出

西郷先生といえば、光村国語教科書の教材選定にかかわった(真偽のほどは?ですが)著名人です。
私の記憶のなかでは、20代の駆け出し時代、原稿をもらいにご自宅に参上し、昼食近くになったら、
「近くの店でご馳走しよう」
と連れていってくれたのが、「カウンターで食べたお寿司」の初体験でした。
いわゆる高級なお寿司など、食べたことなかったので、それはそれは感激したものです。
(今では、私が支払うのが当然の仕儀になりますが、若い時っていいなぁ)
その西郷先生の、幼少期の思い出話が何となく心に残っています。

それは。
父親も亡くなり、継母と生活していた時、若い男性がよく出入りしていたのが気に食わなく思っていたある日。
3人ですき焼きを食べていて、ふと、
「継母が、肉のありかを目で、若い男性に合図している、いわゆる目配せ
を見てしまい」
激高して鍋をひっくり返した、というエピソードが語られていたことです。
―継母もまだ若かったからさびしかったのだろうに、悪いことをした、と追記されていましたが。
ま、誰しも、その場にいたら、よしとする理解などできないのではないかとは思います。
そういう体験があるせいか?、3回目の奥さまは、先生の出先には必ず同伴されていて、わたくしもお会いしたことがありました。
今度は、落ち着くだろうという巷のうわさをよそに、4回目の結婚をされたとか。
きっと最後まで、枯れた心境には程遠いお人だったのでしょう。
ちなみに、東大では、物理学専攻だそうですが、ロシア語が堪能でソビエト抑留時には通訳として好待遇だったらしい、というやっかみ?も、うわさされていました。
ロシア民話「大きなかぶ」を教科書に持ち込んだのは西郷先生だという話もありますが。
 
そうそう、若い私にカウンターで訓示されたのは、
―仕事は一生続けなさいよ。
―母親になったとしても、ママなんて呼ばせないで、お母さんといわせなさい。
でした。
―後日起こった、「西郷先生率いる文芸研VS教育技術法則化運動」の裏話はまたの機会に。


大江戸線の車内 隣りの人の靴に、頭をのっけてる姿に、 「そう言えば、頭が重そう」 ワンコも働き方改革かな。

(文責:経験豊かが尊ばれず?の世を嘆いているHさん)

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