『君たちはどう生きるか』の話。(ネタバレアリ)

※本文には映画「君たちはどう生きるか」、及び宮崎駿監督作品のネタバレを含めた映画の内容考察を含みます。まだ観ていない方はご注意ください。






映画「君たちはどう生きるか」。
公開は2023.7/14。僕が観たのは7/16。六本木の映画館は、ポップコーンを求める観客でごった返していた。文字通りの超満員。混雑嫌いの僕としては珍しく初週での視聴であったのは、あまりイメージに無いかも知れないが、僕は大の宮崎駿好きだからである。最も尊敬するクリエイターであり、最も影響も受けている。御歳82歳になった大先生の最新作。遺作とはまだ思いたくないが、見逃せない。

さて。本作を観て皆さんはどう感じたのだろうか。
『事前情報が一切ない』という前代未聞さも合間って、SNSでもあまり感想を見かけない。ただ観たことだけを伝える為に「映画のフライヤー」だけを無言でつぶやく、という不思議な行為が流行っているようにも感じる。

僕は本作を観るまで、それはまだ観ていない人への「ネタバレ配慮」だと思っていたが、観終わった今もう1つの仮説が浮上している。
「感想をなんて書いていいかわからなかった」のではないか。


まず大前提、それでいいと思う。

これは今までの宮崎アニメや、例えばクリストファー・ノーラン監督作品のように「設定を見つける」ことを楽しむタイプの映画では無い。
まして説教や社会的なメッセージとも少し違う。

何とも不思議なこの映画への感想は、千差万別、皆がそれぞれ持つべきだと僕は想う。正解はない。貴方にはどういう映画に観えたのか。ぜひ聴いてみたい。

そこで本文では、僕が至極勝手ながら感じた「この映画は何か」を書き記す。これが正解という意、ではない。
現状僕はどの考察サイトも見ていない。
映画を観ただけの、純度100%の感想を自分の為にもここに記したい。
貴方の感想とぜひ見比べて楽しんで欲しい。

そもそも解るはずのない映画ではあるのだ。
だってこれは、『宮崎駿が宮﨑駿へ作った映画』なのだから。

まず、主人公・眞人のモデルはハッキリと宮崎駿であると思う。
父が戦時中に戦闘機の部品工場を経営し、戦時需要で儲かった事に対し「親父は戦争協力者じゃないか!」と食ってかかった事があるのが、かの宮崎駿氏だ。戦闘機のキャノピー(窓みたいな部分)を作る工場だった、というのも確かどこかに記述があった気がするのだが、これはうろ覚え。
実際宮崎駿も空襲後に疎開の経験があったらしい。
このプロフィールからみて、まず間違いないだろう。

そんな主人公は青年期に「母を失う」事から物語は始まる。
モデルとなった実際の宮崎駿の母も当然、戦火に見舞われ亡くなったんだと思ったか、実際の宮崎駿の母は享年1980年(これもうろ覚え)と、少なくとも戦時中ではなかった。

この母の死は、そもそも原作の小説「君たちはどう生きるか」での設定でも同じだ。原作では青年が第二次世界大戦で母を失い、夢の世界で母を探す物語だそうだ。(僕は未読なので聞き齧った情報で申し訳ない)
なので主人公のプロフィールを自分によせつつ、原作通りの流れを使ったとも言える。が、僕はどうしてもそれだけでは無い気がする。

戦後の動乱を含め多忙を極めた母を前に宮崎駿は「母に甘えられなかった」というある種のマザーコンプレックスがある。故に宮崎作品には「働く強い女性が多い」というのは、ファンの中での通説だ。

つまりこの「母の死」は、実際に死んだエピソードを元にしたのではなく「青年期に甘える相手であった母を失った僕」の比喩だと僕は思っている。
原作の流れを自分の半生に照らし合わせたのだ。

では、この主人公=宮崎駿説から逆算してこの設定全体を見てみよう。
甘えられなくなった≒死別した母を探し求め、主人公≒宮崎駿が迷い込んだあの世界は何か。

それは当然、『創作の世界』なのではないか。

一見、あの世界は死後の何かに見える。
が、僕はどうしてもあれが「創作の世界」に見えて仕方ない。創作に携わる人間だからかも知れないが。どうも生き死にだけでは片付けにくい道理がある気がしてならない。

仮のあの世界が『創作の世界』だとするならば、それをうちに秘めているあのお屋敷は一体何なのか。

それこそが『スタジオ・ジブリ』なのではないかと僕は睨んでいる。

かつて宮崎駿は似た手法を『千と千尋の神隠し』でも使用しているので、藪から棒に言っている訳ではない。では、あの世界が「スタジオ・ジブリの比喩」として、更に見てみよう。

主人公≒宮崎駿をあの世界≒創作の世界に誘ったのは誰か。
映画内ではアオサギとなっている。これこそが、現実での宮崎駿にとって小説「君たちはどう生きるか」を意味している気がする。アレを読んで彼は、創作の世界に誘い込まれた、という感覚なのだろう。その象徴が表紙に描かれたアオサギなのだ。

その創作の世界には母がいる筈だった。
この小説を教えてくれた母なら、創作者になる事でこっちを向いてくれる筈だ、かまってくれる筈だと宮崎駿は思ったのだ。ところが実際は違った。「いつか母を喜ばせたい」という目標にするだけなら良かったのに、宮崎駿は「どうだった?」と直接母に触れてしまった。結果、ドロドロと溶けてしまった。そういう例え話に見えてくる。

そして先述の通り宮崎駿にとって「創作の世界」は「スタジオ・ジブリ」でもある。ではそこに誘い込んだのは誰か。
ぶんぶんとあちこみに飛び回り、クチバシの中に更に口を持つ「二枚舌」で、あの塔を「案内してくれる」男。魔法で守られた「服」に傷がついたら何も出来ない男。

そう。鈴木敏夫なのだろう。

スタジオジブリ設立を宮崎駿に持ちかけたのは、この鈴木敏夫である。「お母様がお呼びです」と言ったか定かではないが、まさに悪魔の囁きの如くジブリに誘い込んだのだ。

結果、宮崎駿が作った「魔法」を「服」として着込み、世界中を飛び回っている。表向きはスマートなアオサギだが、中身は少し醜い、ゴブリンのそれに似た男だと揶揄されている気がする。

彼が嘴に開いた穴を眞人に直してもらう。
その際「もっとなめらかに…」と頼む。
口に当たる箇所だから自然な気もするが、これが鈴木敏夫モデルだとするなら少し意味合いが違う。正に二人で作品を作る時の光景なのだ。
宮崎駿が作る作品「もっとなめらかに…」と横から口を出す。
それを聞いて「うるさいなぁ」と言いながら手を休めない。
まさに、ジブリだ。

さらにこの例えに乗っかってみよう。

そして創作の世界に行く眞人を必死で止めるバアヤがキリコさんだ。
不思議にも地下世界に行くと。若かれし頃の姿で昔から住んでいる様な存在になる。

彼女は当然、高畑勲だ。

晩年は文字通り「足を引っ張る老人」だったが、若い頃は宮崎駿と「同じ傷」を持っていて、様々な技術を「お前も手伝え」と教えてくれたのがパクさん(=高畑勲)なのだろう。

キリコは、見たことない海洋生物を釣り上げ、捌いて、亡霊のようなお客さんに手際よく配った。これが宮崎駿から見た高畑勲の職人性であり仕事そのものなのではないか。

見たことない海洋生物は、高畑勲がその博識さ故に見つけてきた「モチーフ」を表し、捌いて売る相手が「視聴者」に見える。
キリコのセリフを借りれば「奴らは殺生が出来ない」らしい。自分で「モチーフ」を殺して何かを生み出せない視聴者に、配ってやるのが自分だと言っている気がする。

その世界には「ワラワラ」という何とも可愛い生き物がいる。これは「熟すと天に上り生まれる」と語られているので、天国や死後の世界にある「輪廻転生の手前の何か」にも見える。魂の種、とでも言うのか。
しかし、だとしたら何故「最近は飛べなかった」とキリコが語るのか?戦時中で出生率が下がった、的な意味なのか?ちょっとしっくりこない。

僕はこの「ワラワラ」を「クリエイター」と捉えてみた。先述の客とは違う、作る側の卵達だ。卵は熟す事で「生まれる」。それは生命ではなく「作品が」だ。だから、ワラワラは成長するというより「たくさん食べて膨らむと飛ぶ」のだろう。

作品を産む為にはいっぱい栄養(=人の作品を観る行為)が必要。
「沢山食わせられて良かった」とキリコ(高畑勲)が喜ぶのは、天国での高畑の言葉なのか。(パクさんは後輩育成なんて興味なさそうだが)
さらに言えばこのワラワラへの滋養強壮に効くのは「モチーフの臓物」だ。
エグミのある、奥底の苦い部分こそクリエイターに効くと聞こえる。

つまり沢山の「亡霊の様な帽子の人≒視聴者」とそこに紛れる「ワラワラ≒クリエイターの卵」が居る世界で、両方を食わせているのが「キリコ≒高畑勲」という具合だ。そこに主人公≒宮崎駿が紛れ込み、感化されていく。

しかし、そんなワラワラが飛び立つのを邪魔する生き物が居る。ペリカンだ。彼らはワラワラを食ってしまう。しかも聞けば、それは命令であり、ワラワラしか食えないから仕方ないという。では、このペリカンは何なのか。

僕は、庵野秀明だと思った。

本来はクリエイターになれる才能を「食ってしまう」のが庵野だ。誰もが解る物語、というより、本来ならクリエイターになりえる「オタク」を食う物語ばかりつくりおって!という比喩に感じた。
しかもそれが無意識ではなく、上からの命令で行なっているのも、上層部から「オタク向けコンテンツの量産」を命じられて奮闘する庵野のそれを感じる。しかも庵野は飲み込みが良い。正に、ペリカンだ。

その次に登場するのはインコだ。
可愛い見た目とは裏腹、人食を楽しみにしている凶暴性もある。色こそ違うが、みーーーんな同じ顔をしているし、模様はどことなくトトロっぽい。

これは「ジブリの社員」ではないか。

『千と千尋の神隠し』の中では「油屋」で働く蛙やナメクジに似た従業員達を「ジブリの社員」と例えていた。皆没個性的で、顔がそっくりになっていくという意味だ。そう考えると、今回もその手な気がする。

後に台詞で「インコだらけになってきた」とも語っている。増えすぎた宮崎駿遺伝子を受け継ぐスタッフ達。彼らが今にも腹を満たそうと待っているのは「宮崎駿」だ。宮崎駿から見てスタッフ達は「俺を食い物にしやがって」なのか「俺のお陰で食えている」なのか。

しかも皮肉なことに「赤ん坊を孕んでいる奴は食わない」。
つまり「作品を作っている時の宮崎駿には逆らわない」のだ。引退した途端あーだこうだいいやがって!というなんとも意地のような何かを感じる。

余談だが、今回はエンドロールがやけに短く感じた。少数精鋭体制で制作したのかもしれない。だとすると、このインコに対する怒りを原動力に「やっぱり引退しない!!」と腹を決め、インコを排除した状態で作ったのかもしれない。憶測だが。

そのインコを従えるのが、王様だ。
王様が出陣しようとすると、インコ達が「お供させて下さい!」と叫ぶが、王は1人で挑んだ。(厳密には2羽連れているが)

これはもしかして、米林さんではないか??

米林監督は「思い出のマーニー」「借りぐらしのアリエッティ」などを監督したジブリのメインスタッフの1人。
ジブリは高畑勲、宮崎駿以外に制作は不可能と言われるめちゃくちゃアウェーの中でも「王」として果敢に挑んでくれた。
更にそれ続こうとする「インコ」を止めた。
「嫌われるのは俺だけでいい」という気概を感じる。
(実際にそういう人物かは定かではないが)
だからこそ、インコでありながら今作にも作画で携わっているのかもしれない。

この王が2羽のインコと共に運んだのが『親方様の血を継ぐモノ』だ。
それを持ってトンネルを通る時、ビリビリと「石」が反応した。
「えぇい、親方様の血を継ぐ者だと解らんのか!」と王はご立腹。
そう、これこそまさに、米林監督が作ったジブリ作品に事ではないか。

宮崎駿のイズムを継いで完成させ運んできたのに、世間からの批判がビリビリと痛めつけてくる。その心中、お察しすると言った具合だ。

と、なれば親方様は誰なのか。

当然これも宮崎駿になる。

彼は「13の積み木」を積んでいた。
『風の谷のナウシカ』から始まり、ジブリで監督した映画は今作で11本目。それに、同じく監督をした映画『ルパン三世 カリオストロの城』と、これも監督を努めたテレビアニメ『未来少年コナン』を足せば、丁度13だ。これは明らかに、自分が積み上げて来た物を意味する。

しかも、積み上げる時は慎重に、目を見開いて、汗をかきながら。
やっと積めたと思ったら「これで1日はもつ」と言う。
眞人も思わず「たった1日ですか!?」と驚いていた。

宮崎駿は、神経をすり減らして1つを積み上げても、安心できるのは1日だけ。その次の日には「もっとこうしたい」「こうしておけば…」と苛まれる。それが、クリエイターの性なのかも知れない。

ちょっとずれるが、アオサギ≒鈴木敏夫が飛べなくなったのは「9番の〜〜(聞き取れなかった…)」と言っていた。
宮崎駿、9番目の映画作品は「ハウルの動く城」。
引退会見で本人が「トゲのように残っている作品」と言っていた。
あの風穴を埋めたいのかもしれない。
(僕はハウル割りと好きなのだが)

或いは、『未来少年コナン』を入れた時系列順に数えると9番目は『もののけ姫』になる。あの大ヒットがジブリの全てを変えてしまった。
逆を言えば、鈴木敏夫はその魔法にばかり囚われているという、皮肉なのかもしれない。

話を戻そう。ココまで考えてみると、親方様≒宮崎駿の継承者となる、本当の意味で血を継ぐ者≒眞人は「宮崎吾郎」なのでは?という気がして来るだろう。

違う。彼は宮崎吾郎を映画監督として全く認めていない。

その証拠に、積み木の「材質」で試していた。
宮崎吾郎はジブリ美術館・ジブリパークの設計を担当している。
彼は「似た物は上手に作れるが、その本質を見抜けない」と揶揄されている。しかも、建築家が詳しい「材質」で揶揄するあたり、嫌味が強い。嗚呼、吾郎さん……。

では、あの本質すら見抜けた、血を継ぐ者は誰なのか?


それが、宮﨑駿だ。

今作からクレジット表記が「宮崎駿」ではなく「宮﨑駿」になっている。

つまりこれは「宮崎駿≒親方様」の「意志≒石を継ぐ」「宮﨑駿≒眞人」の物語なのだ。

宮崎駿は日本のトップクリエイターとして、13個の積み木を積み上げた。
そのどれもが基本的には老若男女に解りやすい、エンタメ性の高い作品であった。

そんな自分と、決別したのだ。

もう解らせる事はやめた。
13個、十分積み上げた。
私はこうやって、生きてきた。

だからこれからは、こういう映画を作ります。

それを前にして「君たちはどう生きるか?」と問われている。

そしてそれは当然「ワラワラ」である我々へ向けて問いている。

それがこの映画なのだと、僕は思った。

恐らく観ていて気づいた人も多いと思うが、今作は過去ジブリ作のオマージュシーンがやたら多い。

アオサギと眞人が旅をする森で飛び交う虫は『風の谷のナウシカ』のそれに似ている。何なら親方様が着ていたマントの柄も、ナウシカで予言を語ったあのお婆様のマントに似ている。
インコの王様を追うウッドデッキの様な景色は『天空の城ラピュタ』での、ドーラ一家とのチェイスシーンを思い出す。そこを駆け上る眞人は、ランニングシャツ姿となり『未来少年コナン』を思わせる。
同じ場所のステンドグラスは『千と千尋の神隠し』で銭婆がよこした「紙」が開けてくれる窓にそっくり。
やや強引だがあの森そのものはやはりどこか『もののけ姫』の美しさを感じるし、インコの腹の模様は『となりのトトロ』だ。
眞人の母親であろう「ヒミ」の登場シーンは、『ハウルの動く城』のカルシファーにそっくり。
地下世界で、木々が水面に覆われている中、船を漕ぐ姿は『崖の上のポニョ』を彷彿とさせる。
眞人が冒頭に寝ている家の階段は、『風立ちぬ』と家と同じ作り。シベリア
まで出てきた。

これだけあるのだ。見つけられなかったが、『魔女の宅急便』と『紅の豚』もどこかにありそうだ。

更に冒頭、空襲の最中走る圧巻の画は、高畑勲監督の『かぐや姫』で監督がやりたかった描写に似ている。
アオサギと眞人が初めてしっかり対峙する、あの木刀をバリバリ折られる時の構図は、宮崎吾郎監督『ゲド戦記』の構図に見えてしまう。

自分の監督作だけでない。ジブリの歴史全てを、博覧会のように総決算しようとしている気がしてならない。

更に宮崎駿が大好きな作品も沢山盛り込まれている。
地下世界に入った、あの墓を眞人が見るシーンは宮崎駿が愛する映画『ミツバチのささやき』にそっくりだ。
眞人の泊まる部屋はゴッホの絵に似ているし、庭はモネの絵に、最後親方様の横で浮いてた岩はマグリットだろうか。
7人のお婆さんは『白雪姫』、あの洋館の作りは『ラプンツェル』、親方様が眞人を呼ぶ凍ったバラは『美女と野獣』と西洋物語も多い。

ジブリだけでない。自分自信も総決算に入っている。

御年82歳の宮崎駿。今作も制作に7年かかっている。次は流石に難しいか。だとすると、最後に何を作るのか…?とワクワクしていたが、違った。

あの人は、まだ作る気だ。
82歳にして引退ならぬ「続投宣言」をしたのだ。

そんなお言葉を聞いて、クリエイターは震える。
さぁ、僕達はどう生きようか…。




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