見出し画像

「多様性」の言葉では本当に伝えたい事が伝わらなくなってきたから、知らない事を知らない人達にも伝わるような新しい言葉を考えたい。(「正欲」を読んで感動した話)

 今から10年以上前に将来を考えた時、多様性が輝く社会が良いな、と思ったあの頃から、今日に至るまでに自分の中で「多様性」という言葉は無惨に変貌を遂げてきた。嫌いな言葉にすらなりつつある。
 世間の波に乗っかった抽象的な表現と、それって何?と聞けない綺麗事、正義っぽさが相まって随分と気味が悪い言葉に変貌したなと感じている。

 多様性、とは言わずに最近は「誰もがありのままで居場所を感じられる」と言うんだけれど、それでも多分伝わってなくて、補足すると「誰もが」には犯罪歴がある人も異常性癖の人も自分を傷付けるあの人も含まれる。
 それに「ありのままで」には犯罪を犯す気持ちも、自分を傷付ける誰かの気持ちも、含まれる。

 多分、理解されないだろうと思っていた。犯罪者は一生犯罪者だとか、異常性癖者は犯罪率がとか、再犯率を引き合いに出してきたり。何よりも「自分を傷つけるあの人」まで多様性の一部として捉える人がどれだけいるのだろうか。

 そんな気味が悪い響きになった「多様性」と隣り合わせで生きながら、偶然、というか必然的な帯に惹かれて一冊の本と出会った。

せいよく

 こんなにも、自分の気持ちを分かりやすく、気味が悪い多様性をありありとリアルに、そして他者を理解しようとする行為がいかに難しい事であるかを分かりやすく書いてくれていた本には出会った事が無かった。

 そして同時に、この「正欲」として表現されるような、新しくも今までそこに存在していたかのような言葉で「多様性」に代わる言葉をつくる必要性を感じた。
 

 世間の流れに合わせてマジョリティ側に立ちながらマジョリティである事を自覚せずにマイノリティに耳を傾けてくるような薄気味が悪い親切心のような好奇心を、どんな言葉なら振り払う事が出来るのだろうか。


 犯罪の被害者と加害者が共存する社会、というとルワンダジェノサイドの事を思い出すけれど、それを望む人間がどれだけいるのだろうか。そして、犯罪を犯した事によりどんなに抗っても一生未来を閉ざされた人間の心境はどんなものなのだろうか。
 そして知らない事を知らない、知っている事だけで優しい気持ちになれる人間性を誰が否定する事が出来るだろうか。


 兎に角、朝井リョウさんのように巧みには表現できないけど、日々感じていた得体の知れないモヤモヤを、こうも分かりやすい形で本にしてくれた全ての人に感謝したい気持ちで一杯だ。何より、朝井リョウさんに惚れてしまう一冊だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?