見出し画像

受け手の経験や知識が作品をより輝かせる。「死に至る病」そして「夜と霧」を経て、十数回目の「ショーシャンクの空に」

 決して楽な人生を歩んではいない時、体調や環境に左右されて絶望しそうな夜が誰にでもあると思う。そんな時はキェルケゴールの「死に至る病」に記されている言葉が救いになる。

「人間は精神である。だが、精神とは何か。精神とは自己である。」

 他人との比較などという幼稚なものではなく、自分自身との人間関係に上手くいかなくなり、自暴自棄になった時はじめて人は「絶望」を経験する。同時にキェルケゴールは「絶望」を、「死にたいけれど死ねない状態、生きながらにして精神が死に至る状態」と定義している。それと同時に、絶望は人間にとって必要な事であり、絶望を通して自己との関係を見つめ続ける事が出来てはじめて人間足りうる(動物とは一線を画す)と言っている。

 そんなキェルケゴールが定義する絶望の最高レベル「罪としての絶望」を素晴らしいストーリーと緻密な感情表現で演出したと感じる映画が「ショーシャンクの空に」である。

 名作過ぎる名作中の名作な上、恐らく何万人のブログで考察されたような映画なので、あらすじや考察は省きながら、感じたことを残していきたい。

 この作品は私が小学生中学年くらいから、恐らく10回以上は観ている作品だが、当然、観るタイミングによって得られるものや感動するタイミングが少しずつ異なってくる。
 特に、「キェルケゴールの死に至る病」に加えて「フランクルの夜と霧」を読んでからの、本作品に対する感動具合が大きく変化した。

▽人は環境に左右されない事も出来る
 多くの人間は環境に依存する。それは突き詰めると人間関係に依存しているという事でもあり、刑務所や収容所のような極限の環境においては、同じような行動を取る人間が顕著に見られるようになる。身近で言うと、上司との関係がかなり悪ければ、仕事のストレスを抱えて体調を崩すだろうし、家庭内暴力を日常的に目にした子供は、健全な心理状態を維持できなくなるのは想像に容易いだろう。 

 そんな中で、所謂「極限の環境」においても失われないものが二つあると感じた。それは
一、人間の心の豊かさ
一、他人へ貢献するという存在意義
  である。
 「夜と霧」の中でも、収容所のユダヤ人達が、飢餓と絶望の中で夕陽を見て涙するシーンが描かれているし、「ショーシャンクの空に」の中でも、アンディが刑務所の中で誰の曲か分からないレコードをかけて、囚人も刑務官も手を止めて感動する(人により感情は様々だろうけど)シーンがある。
 景色や音楽の素晴らしさは誰しもが知るものだけど、それ以上にその素晴らしいものを「感じ取る」事が出来る人間の心の豊かさに目を向けたい。

 また他者への貢献において、「夜と霧」では、空腹で死にそうなのに1日1欠けしか貰えないパンをより具合の悪そうな人へ与える様子が描かれているし、「ショーシャンクの空に」においてもアンディが刑務所の中で命を張って囚人たちにビールを飲ませるシーンなどがある。(これによってアンディが何か得をするような描写はほぼ無い。)
 こうした無償の愛、の描写に触れると「罪と罰」のソーニャを想い出すし、聖書でも読もうかという気になるが、日常においても日々それを感じる事が出来ると思う。家族の存在がそうかもしれないし、コンビニで何気なく買ったジュースからそれを感じる事も出来るだろう。

 極限の環境に置かれる事は人生においてほぼ無いとしても、寧ろ日常の中で「心の豊かさ」や「他者へ貢献するという存在意義」を失う事は往々にしてあるのではないだろうか。
 夕陽を見て感動したのはいつだろうか。損得抜きに人を助けたのはいつだろうか。自問してみると、自分の芯を見つめなおす機会になるかもしれない。

▽点と点が線になっていく
 スティーブジョブズの「Connecting the dots」のスピーチも何万回も引用されていると思うが「ショーシャンクの空に」においてもこの事実がとても当てはまる。無意味に思える日々の時間がどこかで大きな意味を持つ事もあれば、その無意味に思える日々に意味付を出来るかどうかで、それを続けられるかどうかが決まっていくと感じる。
 点を打ち続ける為には、健康でなくてはいけないし、新しい点を探さなければいけないし、主体的に人生に関わっていく必要がある。

 「ショーシャンクの空に」の中で、アンディは19年、日々壁を掘り続け、所長の不正資金を出所後受け取れるよう画策し、囚人達に高卒資格を取らせ(描写は無いが出所後の人生が大きく変わり、いつかアンディにシャバで恩返ししたはずだ)、囚人仲間と新たな人生を歩む事になった。19年の中で絶望する日々や自我を保てない時や病に苦しむ事があっても、日々「壁を掘り続ける」事で生きる事が出来ていた。
 決して、刑務所の中で使えるからと言って銀行の副総取になった訳でも、石を磨く趣味があった訳でも、樫の木の下でプロポーズした訳でもない。自分は勿論、他人にも予想できないところで点と点は繋がる、線になる。その線は直線でなく曲線を描く事もあれば、大きな絵を描く事もあるかもしれない。即ち何かに「没頭する」経験は将来にも生きるし、今の時間の辛さを忘れさせてくれるものだという事だ。

 将来の自分がどんな人生を歩むかなんて誰にも分からない上で、点を打ち続ける事の意味はとても大きくないだろうか。そして、その点を打ち続ける為には、何かに没頭しながらも、また新しい何かに興味を持つ必要がある。常に目の前の時間に没頭し続けながらも、飽きる事も忘れず、未知へのチャレンジが出来る人間でありたいと思う。

▽希望は凶器になるが、やはり希望にもなる。
 「ショーシャンクの空に」の中で、囚人仲間で相棒のアンドリューは「希望は凶器になる」と何度もアンディに伝え、諭している。アンドリュー自身が、何十年もの間仮釈放の希望から遠ざけられ、今のどん底とのギャップを感じて絶望する経験があったからこその言葉だろう。仮釈放されたブルックリンという老人は、その希望を捨て収容所で生きていたのに、シャバに戻った結果不安に押しつぶされ自殺してしまう。
 「夜と霧」においても、ある人物が突然「3月31日に終戦する」という予知夢を見てそれを信じ希望に満ち溢れたものの、3月31日が近づく中で徐々に絶望し始め、終戦が遠いと分かるや否や「3月30日に絶命する」というエピソードが記されている。また、収容所を出るまで生き永らえた人達さえ、日常生活の中で絶望し、おかしくなり、自殺してしまう人が多くいたらしい。(収容所では刹に生き永らえる事、日常に戻る事を望んでいたのに)

 希望を持ち続ける事で、今の苦しい現実から目を背ける事は出来る。唯、その希望が自分が想像していたもの程ではなかった時、またその希望が叶わないと知ってしまった時、人は生きる事さえできなくなってしまうのだ。そんな事を考えれば「希望は凶器」とは成る程、的を得ている言葉である。
 しかし、アンディは最後まで希望を持ち続け、その希望を形にする。アンディはブルックリンやアンドリューと何が違ったのか?

 恐らく、「失望する暇がない程没頭していた」事と、「主体性を持った希望だった」事が挙げられるのではないだろうか。
 「忙しいとは心を亡くすと書く」とよく聞くが、ある意味ネガティブな心さえも無くせる一つの手段が忙しさではないかと思う。また、前述した死に至ってしまった人達が持つ希望は「何かに縋るような希望」即ち自分以外に決定権がある希望だったのに対し、アンディが持ったのは「自分で叶える希望」即ち自分が最終責任を担う希望だった。もし脱獄が失敗したり、途中で絶命してしまう事があっても、彼は自ら死を選ぶ事は無かっただろうと、あらゆるシーンから感じ取れる。

 忙しさとは悪であり、余暇が必要だという意見はよくわかる。唯、余暇がある事で余計に仕事や日常に不安を感じたりする事は無いだろうか。日曜の夜にサザエさんを見ていると仕事に行きたくなくなる、みたいなサラリーマンは、恐らく休日に明確にやりたい事が無いか、仕事が生半可ルーティンになっていて、心を亡くすことが出来ていないのだと思う。
 すべてのケースに当てはまる事など無いと思うが、時には心を亡くす程何かに没頭する事、余暇があるならその余暇でも何も考えられない程何かに熱中する事、が絶望から遠ざかる手段であると言えるかもしれない。

 また、人は生きていく中で他人に決定権を取られることばかりだ。親の庇護のもと生きていて、自分ですべて決定できる子供などいないし、職場で社長まで上り詰めても株主の顔色は見なきゃいけないし、株主は世間の顔色を窺いながら決定をしている。
 そんな中、アンディのような生き方をする事は極めて難しいだろうが、自分で決定していく事、夢や希望が他人軸になっていないかは常に見直しても良いと思う。家族の為に叶える夢は、家族がいなければ成立しないし(家族を失った途端絶望しか残らない)、会社の為に叶える夢も、株主や社員を失えば成立しない(社会の為に叶える夢なら、そうそう社会は無くならない)。
 こう考えていくと、禅問答やマインドフルネスが多くの成功者に見直されている事に納得がいくのではないだろうか。

▽ラベル(肩書)に左右される考え方は危険
 社長、部長、平社員、のようなラベル(肩書)に一喜一憂する、もしくはそこに自分の価値を見出している人間は危険だと感じる。
 「ショーシャンクの空に」の中で、所長、囚人、刑務官といったラベルの違う登場人物が出てくる。また囚人の中でも様々にラベル付けする事が出来る。唯、そのラベルに意識を向けすぎてしまう結果、囚人であるというラベルが無くなった途端に自殺してしまうブルックリンや、所長の立場が危ういと分かるや否や殺人も厭わないノートン刑務所長(その後更に自分をも殺してしまう)のように、自分自身ではなく、ラベルが自分のような人生を歩んでしまう。
 「夜と霧」の中でも、収容所の中で、どんなラベルを付けられるかがかなり大事な事が記されている。貰えるパンの数が違ったり、毒ガス室に送られてしまうか否か、また同じ人間であるのに、相手をモノのように扱うナチス軍の人間たちも、誰もがラベルに支配されていると言える。

 日常の中において、父や母、子供、また先生や生徒、上司や部下、といったラベル付けは無意識に、かつ様々にされている。それ自体は特に構わないと思うが、そのラベルに依存し続ける事は危険にしかならないと思う。子育てが終わった途端生きがいを失う親や、生徒である事を盾に暴力を振るう生徒(先生もまた然り)、部長になる事を目標に頑張る社員はその会社以外での生きがいを失うだろう。

 どうせラベルに依存するなら「山田太郎です」という自分自身にしかないラベルだけを大切にし(同姓同名とかいう話ではなく)、環境や役割によって簡単に消えてしまう可能性のあるラベルは意識しないようにしたいものだ。人間の本質的な価値は肩書では何も変わらない、という事を何より自分が自覚しておきたい。

▽さいごに
 「ショーシャンクの空に」は何度も観た作品で、その度に学びや感動を得られる作品だ。この後の人生でも時折登場するだろう。
 唯、今回強く感じたのは「夜と霧」を読んだから気づけた事、感じた感動があったという事だ。それだけでなく、ここ1、2年の人生の底のような経験があったからという事もあるかもしれない。
 
 「夜と霧」だけでなく、「罪と罰」や「夏の雲は忘れない」そして様々な経験。それらが「ショーシャンクの空に」という作品をより輝かせてくれた。本と同様に映画も、観る時々で様々な経験を与えてくれる。
 その為には、日々学び、新しい事を知り、自分と向き合う必要がある。次に「ショーシャンクの空に」を観た時に、よりアンディに共感できるような人生を送る為に、日々どうすれば良いかを考えながら生きていきたい。


刑務所に入る気はないけど...冤罪か何かで入る事があったとしても、アンディの事を想い出せば、きっと絶望と希望のバランスを保ち打ち勝つ事が出来ると信じている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?