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自己嫌悪と自覚

 『上手に自己嫌悪出来る人』が本当に優しいし強い人じゃないか、というお話です。

 『人間失格』を読んだ事はありますか?太宰治の作品で、タイトルは誰もが知っているけれど、内容を読んだ事があるという人はどれくらいいるでしょうか。

太宰治が自己の生涯を描きながら、『恥の多い人生を送ってきました』と綴った通り、主人公が犯す罪を自分の罪と重ねながら露呈していくような作品です。

なるほど、確かに『人間失格』だと思うと同時に、人間の本質を誰よりも描いた作品では無いかと感じています。

作品の話は置いといて。

人間ってめちゃくちゃ汚い一面を持ってますよね。残酷・嫉妬・卑怯・虚言・欲望、色んな負の側面を誰しも持っています。それを『汚い』と定義したのは何故で、誰なんでしょうか。それは決して自分自身ではありません。

 中世フランスで使われた処刑道具、ギロチンの本来の意味をご存知でしょうか。勿論罪人を処刑するものなのですが、その真意はエンタメであり、民衆の溜まりに溜まった負の感情を払拭する為のものだったそうです。
古代ギリシアにおけるコロッセオも、人と人、人と動物が、『罪』という理由付けで、殺し合いを正当化しています。

 どちらも人間の負の感情を昇華させた、人間の根源的な欲求が形になったものだなと思います。これに『倫理観』という蓋をする事は簡単なのですが、こういった負の感情は誰しもの中に存在していますよね。存在していなければ、倫理観なんて持ち出さなくても人間の命は尊重されます。

 人間に存在する感情に『負』というネガティブな言葉を使い、『罪と罰』を設け、『倫理観の蓋』をする事で、なんだか人間の本質とは違う人間像を作り上げてるなと思いませんか?

 芸能人が芸能人たる為に、世間が作ったイメージ通りに振舞うようになり、それに疲れて歪みが生まれるイメージです。私達にも、日常生活において環境毎に違う『顔』や世間が求める『人物像』を意識的に、あるいは無意識に演じる事があると思います。

 ここでいう『世間』とは、誰でも無い、目の前にいる『あなた』、つまり他人です。そこに自分自身は含まれていません。

 あなた、即ち他人が求めているかのような虚像の人間像に支配されていると、負の感情とやらが噴出する時を、自分で制限出来なくなるなと考えます。負の感情は決して必要で無いけど、人間には誰しもある。ならこの感情を自覚してやらないと、無意識に噴出して人を傷つけたり自分で傷ついたりすると思うんです。

話が大分哲学的になってしまいました。

映画やテレビのエンタメ、スポーツや格闘技、会社や家庭、あらゆる場所に負の感情は潜んでいるし、それを上手く利用するようなエンタメやルールも沢山あります。

 それに気付いたら、それを認めて、上手く付き合うことが肝心です。残酷な感情があるならホラー映画で昇華すれば良いし、虚言をしてしまうなら空想の世界を形にして作れば良いし、嫉妬の感情に向き合って落ち込めば良い。

 負の感情に蓋をして目を逸らしていると、蓋はひび割れて、噴出します。要はガス抜きが必要という事ですね。

 自己嫌悪が良くないように言われますが、『人間』という自分に向き合うとき、そこに世間や倫理観があると自己嫌悪せざるを得ません。いかに上手に自己嫌悪するか。自分の負の感情を自覚するか。 人としての本当の優しさや強さが生まれるのはそんな時です。

抽象的でピンとくる人も少ないと思うので、是非、太宰治の人間失格を読んで、もう一度私のnoteに目を通してみてください。(そんな人いないか。笑)

太宰治を読んでいる人とは無条件で付き合いたいな、と思うくらい彼の作品は本質を貫いていて、魅力的です。

上手に自己嫌悪しましょう。

人間失格去年新潮文庫から滅茶苦茶格好良いプレミアムカバー版が300円くらいで出てたのですが...
もう見当たりませんでした^^;

#太宰治 #人間失格 #コラム #哲学

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