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「正欲」を読みながら、資本主義の隙間を埋めてくれる「贈与」を通して多様性と向き合えないか考える。

 昨今の「多様性」に感じる気持ち悪さは以前書きました↑

 朝井リョウさんの「正欲」を読んで、どうしたらこれがもっと伝わっていくのかなと考えているこの頃。ネタバレはしないので、「正欲」を読んだ人にはこれから書く事が少しでも伝われば良いなと考えて書いています。

 「正欲」を読みながら、以前読んだ本「世界は贈与でできている」の話を思い出しました。
「贈与」というのは簡単にいうと「プレゼント(有形無形問わない)」の事で、誰かからのプレゼントは商品としての価値を超える付加価値が生まれるよね、そしてその付加価値こそが本当に大切なものだよね、というお話です。
 確かに、大切な人から貰った時計が壊れたとして、その時計と全く同じものを新しく買ったとしても以前とは違いますよね。客観的に見たら全く同じ物だし、商品価値は新しい時計の方があるけれど、本人からすると大切な人から貰った壊れた時計の方が大切であり、そこに本当の価値があると言うのはとても分かりやすい「贈与」の魅力かなと思います。

 そして、その「贈与」によって資本主義における「お金を交換する」だけの価値とは一線を画する価値を得る事が出来る。それが「資本主義のすき間」という訳です。確かに交換可能なものに本質的な価値が宿らないのは実感が持てるなと思います。
 「無形の贈与」の話でわかりやすいのが無償の愛です。例えば親からの愛情は、見返りを求める事がなく一方的に送られる「贈与」の形をとっており、その無償の愛に子供が気付いた時、つまり子が大人になった時、また親に「贈与」をしていくという時間軸の異なる「贈与の交換」が発生します。
 この時間軸が異なる贈与の贈り合いこそ、お金には交換不可能な価値を生み出しているという訳です。

 そこで、「正欲」の中でもこの「贈与」の仕組みが沢山働いている事に気付き、異常と言われてしまう人達がこの「贈与」によって救われる事があるのではないかと考えています。贈与の大切さを理解する上で、一つ重要になるのが「同じ言葉を使えるか?」という点です。同じ言葉を使えるもの同士で無ければ永遠に理解し合う事が出来ず、相手が求める「贈与」をする事が非常に困難になります。

 もう少し具体的な話をします。例えば「言葉」を理解する上で、必要になるのは「経験」です。「水に興奮する」と言う言葉を理解するには、「水に興奮したことがある」と言う経験が無ければいけません。そしてこの「経験」を互いにプレゼント(贈与)し合う事で初めて、言葉を通して理解し合う事が出来る場合があります。ここでいう交換とはお金のように同時に行われる交換ではなく、片方が先に贈与する事で、そのお返しとして贈与する、そして結果的に交換になっているというものです。(親子のケースと同じ)
 「正欲」の中でも、必ずどちらかが先に自己開示をし(贈与)、それに答える形で自己開示をする(贈与の交換が成立)ケースが多々あります。これは、本当に大切なものである「贈与」を交換した事により、互いに関係性が生まれたという捉え方が出来るなと思います。そしてこれこそが、多様性を理解する第一歩ではないかと考えています。

 私が「多様性」と言う言葉に嫌気が差してきた最たる理由は、「自分が知らないということを知らない」人達が多様性という言葉を使う事が増えてきたからです。自分が知っていることの中だけで多様性を謳っている。これは自分の「経験」の中だけで言葉を、つまり相手の気持ちを理解しようとしているわけで、「経験した事がない」ものを相手が持っていると言う前提に立つのと比べると大きな差があります。そして、「経験した事がない」ものがある事を知らない、知ろうとしない人達は他人と「贈与」し合う事が出来ない。なぜなら使っている言葉が常に他人と異なるから、という訳です。

 そこで、二つの疑問が浮かびます
①「自分が知らないという事」を知る為にはどうしたら良いのか?
②自分から自己開示(贈与)をして相手から返ってこなかったらどうすれば良いのか?

 ①については、常に自覚し続けるしかないと考えています。どんなに勉強しても、どんなに人生を歩んでも、知らない事は必ずある。そして常に「自分には知らない事がある」という前提を踏まえて、人に向き合う事が多様性に向き合う最低条件だと考えます。そして、知らない事を知らない、という事を恥じずに常に知ろうとし続ける姿勢が必要です。
 ②については、まず「贈与」の前提として「交換を求めない」というものがあります。「交換を求める上での贈与」分かりやすくいうと「見返りを求めるプレゼント」を行ってしまうと、相手にそれを気付かれた時、本当に大切なものではなくなってしまいます。見返りを求めていないという前提があって初めて「贈与」による本当に大切なものが生まれるのです。つまり自己開示をしても相手は開示してくれないかもしれない、という考えでは多様性を理解する以前の問題だと思います。(常に見返りを求めて行動してくる人の優しさは偽善、と感じますよね)

 まとめると、多様性を理解していく上で必要なのは
①自分には知らない事がある、という前提に立つ事
②見返りを求めずに自己開示(贈与)する事

 なのかなと考えています。

 自己開示を贈与、というと恩着せがましい感じがしますが、自己開示をせずに一方的に相手に自己開示を求める行為は贈与のカツアゲだと思って貰えれば分かりやすいかと思います。
「私、LGBTQに理解があるから話していいよ」とでも言わんばかりに相談に乗ってくる、「自分が知らないということを知らない」人達は、この贈与のカツアゲをぐいぐいしてくる。その上マジョリティの側に立ちながら、マイノリティを知ろうとしてくるという酷い行為を平然と、自覚もなくしてきます。ここに私が感じる気持ち悪さがあるなと思い、また「正欲」の登場人物が抱える苦悩に通ずるところがあると思いました。

 かくいう私も自分が知っている範囲でしか多様性を受容していない時があると思いますし、自己開示をするには勇気がいる事も多々あります。
 そうした自覚をしながらも、少しずつ、少しずつ、「贈与」をすることで誰かの痛みに寄り添える人間になりたいという気持ちがあります。誰にも寄り添ってほしくない、と社会から断絶されてしまう前に、本当の意味で多様性を理解しようと努力する人達が少しでも増えると良いなと思います。

 
 

 

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