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和敬静寂と御馳走と。

 お客様をもてなす為に、お客様が喜びそうな食材を駆け走り回って集めて料理を用意したという事から生まれた「御馳走」というお言葉。
 御馳走と呼べるようなおもてなしは、現代に果たしてどれだけ息をしているのかと思いつつ、プレゼント選びに駆け回るのも御馳走かなぁ、ちょっと違う気もする。

 それと同じくらい最近気になるのが、茶道において欠かせない和敬静寂の精神。

和:お互いに心を開き、仲良くする
敬:互いに尊敬の意を表する
静:目に見えるところも見えないところも清らか
寂:どんな時にも動じない

と、簡単に言えばそんな意味なんだけれど、日常生活からかけ離れた精神な上、表面をなぞるのは意外と簡単なので改めて敬意を表する事が増えた。

 いやこれ、相手も和敬静寂を心掛けていればまだしも和敬静寂なんて初耳!という相手と和を持って敬する事がかなり困難。
 それと同時に、静寂は一人でも出来そうな気がするけどこれまた他者との関係がないと成り立たないお気持ちなので、難しいなと思いつつ、表面的な和敬静寂が深くなっていく過程を楽しみたい。
 
 それでいて、和敬静寂と御馳走の結びつきが強そう。だって、仲良い上に尊敬していないと駆け回って食材を集めるモチベーション起きなそうだし、いつお相手が来ても寂寂と動ぜず駆け回った上で、駆け回ってないかのように静かに清らかに佇まう必要が出てくる。

 つまり、御馳走しよう!したい!と思った時点が和敬静寂の始まりなのかなぁと思いつつ、まずは言の葉から、精神から借りて形を整えつつ、多分22、3年はおもてなしの真意も無視して生きてきた事を後悔している。

 和敬静寂を思い出すとそのたびに、自分は人間失格で生きてきた瞬間が多々あるなと思って死にたくなる。まだ死ねないけど。

 10代のうちに出会っていればもう少しマシな人間になっていたかもしれないと思う瞬間が最近多い、それはそれで20代で出会えただけましかと思いつつ、来年にはそんな事考えずに寂しさのない孤独と孤立の中で、罪の対義語は罰以外である事を探していきたい夏越の祓である。(6/30)


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