ダークな伊藤

 美玖がケンジくんと別れる別れないで騒いで飲んで泣いて吐く。そんで寝る。いい気なもんだねと彼女の寝顔を見つめるマミ公がつぶやいて、美玖がぶちまけたおゲロをティッシュで拭っていた私はちょっと笑う。
「あれだけ暴れられるんなら心配ないね」
 この発言に根拠なんてないのですが。
 ことの発端はこうだった。美玖の生理が終わってさあやるぞってタイミングでケンジくんから誂え向きなお誘いがくる。もちろん美玖は喜んで腹筋と背筋とスクワットとV字ラインの手入れをしてからデート当日を迎え、ケンジくんの住むマンションへと向かったのだった。これはすごいことなのだ。高校のころの美玖は口元の汚れを手の甲で拭う系女子だったのに、ケンジくんと付き合うちょっと前くらいから、自分の持って生まれた素材の良さを積極的に受け入れるようになった。美玖は目が大きくて色白で姿勢が良かった。ほくろがちょっと多いけど、深い二重の大きな目をしていたし、いつもなんでか恥ずかしそうに笑うところが柔和だった。私はケンジくんじゃないので彼が美玖のどういったところが好きなのかはわからないけど、美玖のことが好きだという気持ちはちゃんと持ってる。種類は違うんだろうけど。
 美玖がケンジくんを殺してやりたいとのラインをよこしたそのとき、私とマミ公のリバティーガールズは私の部屋でジュリア・ロバーツの『食べて祈って恋をして』を観ながらほろよい気分で「クソばばあ! 私も仕事辞めたいわ!」とゲラゲラ笑って過ごしていて、美玖の悲痛な叫びも酒のつまみくらいにしか思わなかった。せっかくのデートで殺意まで抱くってかわいそ~。で、早々にうちにきなと送ったところ、彼女が泣きながら登場したのだ。どこからきたの? と尋ねるわたしに彼女は「阿佐ヶ谷」と答えた。ここは埼玉の朝霞市なので、ここにくるまでずっと泣いてたってこと?
 美玖は阿佐ヶ谷にあるケンジくんの部屋に遊びに行き、なにかDVDを観ようという流れになった。ケンジくんが取り出したのは『ダークナイト』で、それが美玖的にアウトだったのは、美玖の元彼のカズヒコくんもまた『ダークナイト』を愛しており、美玖に何度も鑑賞を強いていたという過去があったからだ。
「男ってすぐ薀蓄言い出すのなんで?」
 美玖が叫べばマミ公も同調する。「それね。てか『ダークナイト』好きすぎじゃない?」
 私は爆笑する。
「しかも映画が長いの! 二時間超えてもまだ終わらないの! わたしはとっとと映画観終わってケンジと向かい合いたいのに、ふたりしてずっとテレビの方向いてるんだよ! 二週間ぶりなのにだよ! しかもずっと喋ってくるの! この俳優はその後死んだとかトレーラーは本物ひっくり返してるとかこのシーンはアドリブだとかこれはジュリア・ロバーツのお兄さんとかこの黒人は本当は強いとか……」
 美玖……。苦痛だったはずなのにちゃんと聞いた話を覚えているんだね。私は急に笑えなくなる。
「男は腕力とか知識とか、そういうもので力を誇示したがるの。いつまでたっても本当に子供だから。てかくっだらねえ。なにその薀蓄。知って感心してほしいのかね。どうでもいいっつうの。男はクソ。男はねえ、浅いんだよね。欲望とかむき出しでさ。ほんと醜いよ。おえ」
 美玖の話にかこつけて自分の言いたいことを語り始めたマミ公のことは一旦おいといて、私はとりあえずパスタを茹でる。美玖は結局朝から何も食べていないのだという。
「美玖、ペペロンチーノでいい?」
「いい! ありがとう!」
 マミ公が停止中だったDVDを再生する。美玖の叫ぶ声がする。
「やめてよー! ジュリア・ロバーツじゃん!」

 以前も美玖がケンジくんと喧嘩したことがあった。そのとき彼女は「ケンジにはデリカシーがない、冗談ってことを建前に何言ってもいいと思っているところが嫌」と言っていて、そういう人確かに嫌だねと思った私がちょっとしたいじわるで「別れたら?」と言うと彼女はパーカーのポケットに手をいれ、秋の風に踊る前髪に目を細めながら、「でも手マンがうまいから」と呟いた。自分でなに言ってるのかわかってるの? という私に、美玖はわざとなんでもない風を装って「え?」と首をかしげてみせるもんだから、私も笑って済ませるしかなかったのだけど、思い返すたびにやっぱりちょっと引いてしまう。セックスがいいとか体の相性がいいでも良かったはずなのに、手マンってわざわざ言わなくってもよかったんじゃなくて? それとも本当にそれしか良くないのかな、とか考えるのだ。
 目を覚ますと美玖が私の肩をゆすっていた。「水飲んでいい?」とかすれた声。「わざわざ聞かなくてもいいのに」わたしも起き上がっていっしょに水を飲み、それからふたりでマミ公のことを眺める。
「起こそっか」と美玖がつぶやく。
「まだ七時だよ。それにお昼まで起こさないでって言ってた」
「そうか。散歩に行きたかったのに」
「いいね散歩」
「行こうよ凛」
「行こうか」
 顔を洗い薄いカーディガンを羽織って外に出ると、朝の冷たい空気が頬を撫で、湿った肌がぎゅっと締まるのがわかった。時間の流れに勢いがつきだす前の雰囲気は久しぶりだなと思いながら、ひとけのない住宅街を歩いてみる。急な階段を登って振り返れば、目覚めつつある住宅街がひっそりと広がっていた。
「昨日はごめんね」と美玖が言ったので、わたしは少し黙ったあと「風が気持ちいいね」と返した。
「そうだね」
「二日酔いはない?」
「全然。いい目覚め。生まれ変わったみたい」
 私は「よいしょ」と声を漏らしながら階段の最上段に腰掛け、何を見るでもなく視線を遠くに固定していた。美玖は立ったまま電柱に寄りかかっている。
「さっきラインきてたの。ケンジから」
「ふうん。なんだって」
「ごめんねだって」
「やったじゃん」
「午後また会うことになった」
「お」
 美玖は両手を天に伸ばし「ううううううううう」と息を吐く。「延命治療してくるわ」
「それってあれのこと?」
「あれってなによ」
「ケンジくんの得意技」
 そういった私の肩に美玖が手を置く。「ちょっと凛、下品」
「知ってるよ」
「うそうそ、いいよ別に」
 それも知ってる。
「ははは、こんな話、マミ公の前じゃできないもんね」
 美玖はすぐそばに腰掛ける。あったかくて、思わず鼻をすすってしまう。
「なんでよ、マミ公いてもいいじゃん」
「本気? マミ公こういう話苦手じゃん」
「そうかなあ」
「だって処女でしょ」
「関係ないよそれ」
 なんて言いつつ私の考えは弾む。ケンジくんが上手いなんて絶対うそだ。結局ああいうのは配慮の世界だから、話で聞く限りケンジくんにそういう気遣いができるとは思えない。だからきっと美玖も口ではああ言っているものの、ケンジくんの魅力というものをちゃんと見つけていて、そこをしっかり愛せているのだろうと思う。まだ本当に手マンだけの男だったほうがマシだなと思うのは、私の情けない嫉妬だ。
「ケンジくんのどういうところが好きなの?」
「え、だからそれは」
「冗談とかなしで。ちゃんと真面目なやつも聞いてみたいじゃん」
 美玖が肩をぶつけてほくそえむ。いつもの恥ずかしがるような笑みじゃなくて、いたずらっ子のような、妙にハツラツとした笑い方だった。
「ケンジくんはね、あれでいてすごく配慮の人なの。ふたりっきりだとたまにゆるくなっちゃうけどね、複数で会うとちゃんと全体を見て話すしね、場が盛り上がって誰かが心無いことを言いそうになるとちゃんと軌道修正するしね、そういうところ、すごいと思う。わたしにはできないから」
「意外~」
「でしょ?」
「なら、たぶんもういっしょに『ダークナイト』観ようだなんて言ってこないだろうね」
「そうかも。でもいいんだよ別に。たまたま昨日はわたしの中に違った期待があったからで、のんびり『ダークナイト』を観たい日だってあるはずだもん」
「それいって仲直りしなよ」
「あ、そうだね。ありがとう凛」
 お礼を言われるようなことじゃないよ、と私は思う。いまの私はただいい人、いい友人のふりをしているだけだよ。本当は心のどこかにもやっとした薄汚い感情を忍ばせているけど、そんな自分を突き放したくて聞こえのいいことでやり過ごしているだけだよ。でもそれは私だけの話じゃないよね。みんなそうで、押したり引いたりでいっしょに過ごしてるんだよね。
「朝ごはんでも買って部屋に戻ろうか。マミ公起きてるかも」
「そうだね。あ、あと、シャワー借りてもいいかな」
「もちろんよいよ」
「やった!」
 私は幸せそうな美玖が好きだし、大声で笑うマミ公が好きだし、そんな彼女たちと一緒にいる、実は『ダークナイト』が結構好きで東村アキコの漫画に年々同調できずにいるまあまあ美人でそこそこモテるけど恋愛に関しちゃすっと声を潜めちゃうようなこの奥ゆかしい自分が大好きなのだ。
 吹きだしそうになったその瞬間に、雲の切れ間から差し入る陽光が私たちを照らす。撫でるように優しい温度が、私たちの視線を交差させる。なんだかいい日になりそうだね。二人して目を細めながら、口元をきゅっと締めると、神様が下北あたりで親指を立てているような気分になった。




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