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ある夜、僕は電柱の上にいた

始める前に言いますが、僕は偏った人間です。残念ながら、近年の悪しき令和のオタク文化を引っ張るような、ある種のカルト崇拝に近いレヴェルで仮面ライダーを愛しています。その愛は多分、およそ一般的な人間が趣味や興味の対象であるモノに注ぐ愛とは比べ物にならない程です。
ではそんな人間が平等な目でこの映画のお話ができますか?と聞かれればそんなの無理に決まってます。どう足掻いても「庵野サン解ってる〜!」に帰結します。しかしこの映画は、そんな中途半端に放棄してはならないような気がしてならんのです。下手したら『映画』という文化芸術の形を大きく変えているようにも思うのです。 仮面ライダーオタクとしての自分と、そして映画を鑑賞する鑑賞者としての客観的な視点、あるいは観念的な、自分の中に存在する意識や理解の範疇からこの映画を『鑑賞』したいと考えています。これが全てですが、ツラツラとそんな僕が自戒の意を込めて、映画に持ち込むと危険な"前提"を語ります。何を伝えたいの?って、それ禁句!
以下、敬称略

ある夜、僕は電柱の上にいた
(シン・仮面ライダーへのラブ・レター)

アマゾンプライムビデオにて7月21日に配信が開始されたシン・仮面ライダー(2023)。まさかこれを読んでいてまだ観ていないなんて輩はいないだろうと思いますが(観てないなら今すぐ観てこい!このトンチキ)皆さんはこの映画を楽しまれたでしょうか?
筆者は昭和を生きる仮面ライダー達によって人格を形成されたと言っても過言ではない程、強く仮面ライダーひいては昭和特撮に影響を受けた人間です。本作は仮面ライダー(1971)のリ・ブートであり(あるいはリ・ビルド)勿論僕は本家本元の鑑賞は全て終えていました。昭和という時代に一切生きていない僕は、仮面ライダーから感じる当時の空気感にやみつきで、一体幾人とこの感覚が共有できるのかはわかりませんが、それでもあのライダーが巻き起こす高揚感は忘れる事ができません。

そんな僕にとって、シン・仮面ライダーは特別な意味を持って当然と言えば当然です。自分が愛したヒーローが、令和の時代に帰ってくる、新しい力と意味を持ってやって来るんですから、僕は公開される前から自分にとって素晴らしいモノである事を確信していました。

公開初日、劇場に駆け込み僕は鑑賞を終えました。同時に、心の中で葛藤が始まったのです…。ライダーのファンとして、これ以上ない出来であったのは確かでした。どんなカットを切り取っても、どんなセリフを切り取っても、どんな背景を切り取っても、それは『仮面ライダー』の中で最上の表現だったと確信しています。僕はそこに虜になりました。

一方で、心の奥底で呻いている僕がいました。「なんだこれは!本当に面白かったのか?!この作品は!」そう言っているのは紛れもない僕自身です。
そう、僕は僕自身がライダーファンという前提をこの作品に持ち込んでしまったが故に、この作品の構造を持たないシンプルな側面からの面白さを見失っていたのです!
然しこの現象は多くの人間にみることが出来ました。持ち込む"前提"が存在している人間は、きっとこの作品に対して僕と似た感覚に陥っていると(勝手に)思っています。

ライダーファンという前提がある人間は、本作の多くのパロディやオマージュに狂喜乱舞すると思います。
「あ!アレ、ロボット刑事Kじゃねえか!!!!!」「おいおい第ゼロ号、ダブルタイフーンなのか?おいおいおいおいおいおい」「ここであの曲流しちゃうか~~~~~~~庵野~~~~~~!」
そう、そうなんです。ファンがやってほしかったこと、全てを忠実にこなしていくその映像に僕らは否応なく快感を覚えてしまうのです。これは逃げられない呪縛みたいなものではないでしょうか。だって、本当の魅力に目が届かないんですもの。ただ盲目的に、あのオマージュが、パロディがと、それだけで映画というものは成立しえないんです。
さてライダーファンの皆様方。一度自分を振り返りましょう。この映画を他人に薦めるとき、「仮面ライダーのテレビ版を全て観てからのほうが良い」と言った覚えはありませんか?安心してください!僕めっちゃ言ってます。
アホみたいに言ってます。なんだったら、「TV版を観ている者にしか伝わらない魅力がある!」くらいの勢いで何か話してます。然し僕はふと思ってしまったんです。それ、変じゃね?
グリッドマンユニバース(2023)を思い出してみましょう。上映館は全国でも限られていましたが、「これぞGRIDMAN!」誰もがそう信じたのではないでしょうか?グリッドマン、ダイナゼノン、電光超人、それらを愛した人の為に究極のパーソナライズを経て最高の作品になったグリユニは、確かにグリッドマン、ダイナゼノン、電光超人を観ていない人間には真の魅力は伝わらなかったように思います。
然し本作シン・仮面ライダー。「時代が望む時、仮面ライダーは必ず甦る」のです。蘇ったライダーは、きっと僕らに新しいメッセージ、そしてその魅力を伝えようとしているように感じるんです。
なのにどうしてパロディが、オマージュがと、まるでそれだけが魅力のように語ってしまうのでしょうか。それらはあくまで映画に付随した魅力の一つであって、必ずしも共有されるものではない(個人の主観!)だと思っています。

他にも僕が思うのは、観客側が庵野秀明の映画を求めているという点。これも前提の問題です。仮面ライダーの映画ではなく、庵野秀明の映画が観たいんだ!と劇場に駆け込む人達を多く見受けましたが、彼らは総じて言いました、「なんか微妙」と。そりゃ当たり前です。庵野秀明は、『仮面ライダー』を撮っているんですから。
時代に合わせてメッセージを新たにし帰ってきた仮面ライダーを撮っているんですから、庵野秀明がただひたすら独白を続けるシン・エヴァンゲリヲン劇場版(2021)みたいなモノを期待するのは酷な話です。ここ最近ホットな話題とも繋がるんですが、宮崎駿の君たちはどう生きるか(2023)然り、いつからか『映画監督』という存在がキャラクター化し、映画の中に見え隠れするソレを神格化する様なフシがある様に思うのです。何もアニメーションに限った話じゃありませんが…
多分ずっと昔からその気風はあった思うんですが、それは演出を観て感じるある種の『好意的な印象』の様なモノとは全く異なっていて、岡田斗司夫が大きくなり始めた頃からでしょうか?裏を推測し、まるで自分が現場を見てきたかのような立ち回りを鑑賞中に行う人間、そういう種類の鑑賞者が増えたことにも起因すると思うのです。映画の楽しみ方は人それぞれですから、僕にそれを否定する術はありませんし、そもそも否定するつもりはありませんが、何となく鑑賞者と造り手側に『ズレ』が生じるのは確かだと思います。然し、シン・仮面ライダーまではそのズレを体感せずに楽しむことが出来ていたのでは無いでしょうか?そういった楽しみ方をする鑑賞者がそのズレに気付くことが出来るのはひとえにシン・仮面ライダーだからであるとも言えると思います。

結局、前提を持ち込めば『本当に伝えたいもの』は紆余曲折を経て、大きく変化した状態で観客に届いてしまうわけです。

然し究極を言ってしまえば、どれだけ作りこまれていようと、どこまでこだわりぬこうと、明確に『ズレ』が起こってしまっても、鑑賞者が持つ感想には自由が保障されているのです
GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊(1995)を観て「なんかもっさりしてるよくわかんねえ映画」と思おうが、ゴジラ(1954)を観て「なんか暗くて全然お祭り感がないから嫌い」と思おうが、LEON(1994)を観て「ただの未成年淫行じゃねえか!」と思おうが、それらは自由なのです。どんな感想を持とうが、それは大切な個人の思想であり守られるべき文化財です。

そんな中、声を大にして言いたい!

「何を観るにしても、テレビから離れて観よう!目が悪くなるぞ」

何事もそうです。一回離れませんか?
ライダーファンという人格形成にすら必ず姿を現す、ある人にとっては自分を象徴するものであっても、それを一度剥離させてみるという事は、非常に重要だと思うのです。
庵野秀明が作ったものが観たい!よくわかります。けれども一度、誰が作ったのかわからないような催眠を、自分にかけてみませんか?(無理)
一度距離を置いて、何か別の視点から、そう、『まったくのゼロ』から、シン・仮面ライダーを観てみませんか?
「これはライダーだから」「庵野の映画だから」「オマージュだから」
全部、取っ払いませんか?

僕はまだその最中です。到達しきっていません。だからこそ僕は、真夜中に突然「シン・仮面ライダーを観ないと」
そう思ったんです。

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