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アブノーマルへの日常

昔からきっちりとしたことが好きだった。
右足から上がった階段。右足で終わるとなんだか身体の右側に重心を持っていかれる感じがするから、右足で登り切っても、その場で左足にも登った感覚を味合わせるように足踏みする。
青信号になったら渡ると言われたが、私の信号は赤と緑しかなかった。「昔の人は緑も青だったの」と。じゃあ今は赤と緑でいいじゃないか。
これはひねくれか。

お菓子、おつまみ、個包装されたマスク、などなどに必ずと言っていいほどある袋のギザギザ。私はあのギザギザを当たり前のように開け口だと思い、破って開けることにものすごく抵抗がある。あのギザギザがあるということはもちろん袋の重ね合わさっているところもある。魚の尾鰭のようなあのピロピロを持ち上げて、魚で例えるなら、お腹の方をつまんで、引っ張って開けた方が確実に綺麗に開けることができる。
ギザギザから開けることでとても恐れていることは、勢い余ってギザギザを破ったときに、反対側のギザギザまで到達してしまい、片手に9/10のお菓子が入ったギザギザ、もう片手には1/10のギザギザが残ることだ。1/10ギザギザが片手に残っているために、片手は1/10ギザギザに支配されてしまう。お菓子を食べ終わり、空になった9/10ギザギザの中に1/10ギザギザを入れるまでずっと。
さらに、困ったことが、破る勢いをギリギリセーブできたとしても、かろうじて1/10ギザギザが9/10ギザギザにしがみついているあの状況がなんともだらしない。その袋を持ち、お菓子を貪っているあなたもだらしがないふうに見えてしまう。
ただ、ピロピロを持ち上げて開けることで、片手でお菓子を支配できる。情けない、だらしない袋を持って過ごすこともない。袋を捨てる時も分離している1/10が無いために、スマートに処理出来る。
なんと言っても、きっちりとしっかりとしていることが気持ちが良い。
強要はしない、したくない。ただ一度考えて欲しい。ギザギザがギザギザにかろうじてしがみついているあの袋を。バランスが悪過ぎる「く」みたいな可哀想なギザギザ。そう、ギザギザを悪と言っているわけではない。あくまでも、ピロピロから開けた方がスマートだろうと、綺麗だろうと主張している。いや、確実に綺麗だろう。破るんじゃなくて開けてって言ってるんだよ。ギザギザからは破っているんだ、ピロピロからは開けているんだ。
「これ破って欲しいな」ってお菓子の袋を渡してくる人はいないだろう。「これ開けてほしい」だろう。

沖縄居酒屋にて、お通しが袋に入ったお菓子のようなものだった。なかなか誰も手を伸ばさない中、私が満を持して手に取った。8人での飲み会、話も盛り上がっていた。私は開けた、みんなは破った。
私が、ドラマ「カルテット」に出てくる、高橋一生扮する家森だったら、真っ先に指摘していただろう。唐揚げにレモンをかけたその瞬間に出てきた「え、えええ、ええ、」や「個々に取り分けるために置いたんじゃないか」と。唐揚げに添えてあるパセリにありがとうと言うように、袋の中のお菓子を安心安全に食べられるのは紛れもない袋のおかげなんだから感謝を伝えようじゃないか。最後の最後まで敬意を払い、綺麗にその最期を迎えられるように、ギザギザを破るのではなく、ピロピロから開けるのが最低限のマナーなんじゃないか。

最近は、日々身の回りにある、「坂元裕二的展開」を見つけることが楽しみになっています。何でもかんでも話しちゃう人、言葉尻を気にしてからかっちゃう人。日常における何でもないが非日常の映画にあることで日常に寄り添ってくれる。アブノーマルへのプロローグとして、何かがあると期待する。
言葉を大切に聞いて話して。

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