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記憶保管庫:マダニに刺されてからの2週間

 人生で初めてマダニに刺された。油断した、というほかない。家に何本もディートの入った虫除け剤がありながら、車の中にも1本を常に置いているのにも関わらず、マダニに刺された。戒めと記憶の保管として、ここに記録しておこう。

 私はキャンプによく行く。学生の頃からなので、ン十年の年期の入ったおっさんキャンパーだ。20年物のテントやシングルバーナーをメンテしながら現役で使用していたりする。また職業柄、どうしても山に入らなければいけないこともある。日本だけでなく、海外でも山に入らなければならないこともあった。時には学生を伴って山に入ることもある。そのため、マダニには最新の注意を払ってきた。夏でも長靴/長袖で肌は出さないのは当たり前で、常にディートの入った(しかも、なるべく濃いやつ)を常備し、山に入る前にスプレーしていた。山から戻ったら即シャワー。温泉が近くにあれば、必ず寄って入る。

 このようにマダニに警戒するようになったのには理由がある。研究室の先輩が大変な目にあったからだ。その様子を学生の時に目の当たりにしたので、マダニには常に注意を払うようになった。最近ではSFTSなどの新発見された感染症のこともある。学生を引率したりする責任から虫除け剤は常に車に常備している。このように、キャンプでも、仕事でも常に注意を払っていたのに・・・完全に油断したという他ない。

 その日は恒例行事であるホタル見学に息子と妻と出かけた。毎年かかさずホタルを見に行っている場所がある。このド田舎から、さらにヒトのいない山奥に入った場所だ。私がこのド田舎底辺大学に勤め始めた頃は集落があったものの、現在は全ての居住者はいなくなり、建っていた家は朽ち果てている。全てが森に帰ろうとしており、野生動物がかつて畑だった場所を闊歩している。ヒトと野生動物のザ・境界線だ。ある仕事がきっかけで訪れた場所なのだが、凄い量のホタルが乱舞しているのを目撃して感動してしまい、それ以来、毎年その場所にホタルを見に行っている。

 今年もそろそろだろう、ということで一度目に行った時は外れで、乱舞には至らなかった。息子と残念だったねーと行って帰ってきた。何日かたってから、もう一度息子と妻と見学にいった。その時はタイミングが完璧で、それは見事なホタルの乱舞を見ることが出来た。ここ数年でも一番の量で、息子と妻と感動して帰ってきた。車を降りていたのは、わずか1時間ちょっとだろう。集落がなくなったといえど、道路は維持されていて、その道路脇に車を止めてアスファルトの上を歩いて見学した。アスファルトの端は確かに草が生い茂っていたが、その程度である。藪の中には入ってないし、森の中にも入っていない。唯一、車を寄せた場所の運転席側は藪らしい藪だったように思う。

 息子は半ズボンだったので車を降りて直ぐに忌避剤を使用させたが、私は短時間だし、長ズボンだったし、道路脇だし、忌避剤を使用するまでもないだろうと思ったのだ。それが間違いだった。油断だった。サンダルかジーンズにとりついたダニは、帰宅するまでの1時間ちょっとの間に私に食いついたのだろう。家に帰って、息子、妻、私の順でシャワーを浴びている。その時は全く気づかなかった。ホタルを見てから、都合3回目のシャワーの時に気づいた。何かがあると思ったものの、ちょうど老眼でピントが合わないところで、泡まみれのまま掴んで引っ張ってしまった。ポンという感じで引っ張られた皮膚から離れた物体をピントがあう位置に持ってきてマジマジと観察したらマダニだった。

 ぎえーーーーーーーっと心の中で叫び声をあげて「まぢか!」と声を出した。直ぐに息子を呼んで、ティッシュと入れ物を持ってきてもらいマダニの泡を落としてビンの中に確保。自分の泡を落として体中を点検。妻と子供にもそれぞれの体中を点検するように促す。どうやら、我が家族にとりついたのは、その一匹のみのようだ。念のため、ホタル見学に行った際に履いていたジーンズを洗剤と共に洗濯機に放り込んでスイッチを入れて、服を置いていた部屋など隅々まで掃除機をかけた。ここまでやってから、ダニをまじまじと観察。間違いなくマダニだ。ネットで検索して出てくるお手本のようなフォルムが瓶の中を元気に歩いていやがる。私には種まで分からないが、かなり膨らんでいて大きい。その腹の中には私の血が詰まっているのだろう。やってしまったと冷や汗がでる。

 もしマダニの口が皮膚に残っていたどうしよう、という焦りに襲われる。マダニの口から感染症を持つ体液が私の体の中に浸入しているかもしれない。昔に子供が夏休みの自由研究で使用した、おもちゃの顕微鏡があることを思い出し、それでマダニを観察するが動きが速くてなかなか「口」が残っているかどうかが分からない。どうにかこうにか素人がみる限りでは「口」が残っているのを確認できるまでに1時間以上を費やす。既にマダニは体から離れているし、病院は閉まっている時間だし、口は本体にありそうだし、救急に行くまでもない、と判断してその日はビールを飲んで就寝。

 翌日にネットで色々と調べて青ざめる。SFTSやばい。まじでやばい。これは病院に行った方がよいと判断するが、その日は日曜日。月曜朝に勤務先にマダニに刺されたことを連絡し、病院に行くので休みますと伝える。ビンに入ったマダニを大事に抱えて皮膚科へ。ホタルを見に行った日から何日も一緒にいるのだ。文字通り血を分けた兄弟のようなものだ。受付でマダニに刺されたことを伝えて、刺したマダニを持ってきていることを伝えると「先生がダニを確認します」とのことで瓶が持って行かれる。血を分けた兄弟との別れはあっさりだ。その後の診察で言われたのは、

 1)口は確かにマダニ本体に残っているが、口の先にあるトゲの数が左右で不揃いなのでトゲが皮膚に残っている可能性がある
 2)強く引っ張ってしまうと、マダニから体液が押し出されてヒトの体に入る可能性がある=感染症にかかる可能性がある
 3)このあたりでもSFTSウイルス陽性マダニがいるとの報告があるので、細菌性の病気だけでも先に潰すために抗生物質の予防投与をした方がよい

 ということだった。刺された部位は皮膚切開をして取り除いた(あり得ない場所に麻酔のための注射を打たれて絶望した)うえで、抗生物質を予防投与で7日間飲むことになった。1週間後に再診に来るように言われるが、ちょっとでも熱が出たら直ぐに電話するように、と言われる。「大きな病院にいかないといけないからね、すぐに紹介状を用意するから」と。その時、先生が続けて「でも、あそこは今コロナで大変だからな—」とぼそっと言っているのを聞き逃さなかった。SFTSや細菌性感染症を発症した場合に紹介する病院がコロナと戦っている病院と同じなのだろう。

 それからの1週間は生きた心地がしなかった。ちょっと頭痛がするだけでビクビクする。ネットでSFTSのことを調べれば調べるほど、発症したらヤバいことが分かる。しかも、新型コロナで大変な真っ最中に病院に多大な迷惑をかけることになるだろう。なぜあの時に虫除け剤を使用しなかったのかと後悔ばかりした。我ながら精神的に情けない1週間を過ごす。いま日記を見返しても、イライラしているのが分かる。

 コロナのこともあり、熱は毎朝測っていたが、夕方にも測るようにして、発熱があればすぐに病院にいけるように準備をしていた。また今期はコロナのせいで講義が大幅に遅れているので何がなんでも休講を出すわけにはいかない。事務の方に事情を説明し、もしもの時はオンデマンド講義を私が居なくても開始出来るように準備を整えた。妻に保険請求などの連絡先一覧を渡す。もしもの時に連絡を取るべき人を伝える。共著論文のチェックを終えて送り返す。やれることをやれるだけやっていると、まるで死ぬ準備だなと情けなく思って、大きなため息ばかりしていた。

 そうやって1週間が過ぎて、再診にいった。病院では切開箇所を確認して傷の治りそのものは順調なことを伝えられ、もう再診にはこなくて良いと言われる。安堵したのもつかの間で「もう1週間は発熱に注意するように」と念を押される。もし発熱したら直ぐに連絡をしなさいと繰り返された。まだ安心は出来ないのかと絶望感に襲われた。しかし、そこから1週間以上が過ぎた。恐らくは、もう大丈夫だろう。今日はこれを書いたら久しぶりのビールを飲もうと思っている。

 この期間、本当に生きた心地がしなかった。あれだけ気をつけていたマダニに刺されてしまい、しかも、この新型コロナで大変な時期に刺されてしまい、本当に反省しかない。これからマダニがどんどん活発化する季節だ。もし、これを読んだ方がいれば、是非とも気をつけて欲しい。きっと、どこのド田舎も同じだろうーー新型コロナの対応も、SFTSの対応も、同じ部署の担当だろう。マダニに刺されてしまうと、ただでさえ忙しい医療従事者の時間をさらに奪うことに繋がる。そしてSFTSが発症すれば死ぬ可能性は相当に高い。この時期に山に入る時は、肌を隠してディートをふる。それだけでぐっとマダニに刺される可能性は下がるはずだ。たった1時間の道路脇の散歩でも場所によっては刺されることがあるのだ。油断してはいけない。それが伝われば、この情けない私の記録も意味があるだろう。

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