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噛み合わない議論の先にあるもの

 最近、話題になったツイッタランドのとあるやりとりを週末にぼーっと眺めていた。

ある事象が起こる

研究者が真摯にやんわりと反論して説明をする

非研究世界の住人(政治家とか、謎のアカウントとか)が罵るように文句をつけて絡む

再び研究者が真摯に説明をする

しかし非研究世界(たぶん理系じゃない)の住人がまた汚い言葉でいちゃもんをつける(以下、その繰り返し)

というものだ。コレを見ていて、とある小説のフレーズを思い出した。伊坂幸太郎の「砂漠」という素晴らしい小説に出てくる、どこまでも熱い登場人物"西島"の台詞だ。彼は三島由紀夫を、こう評したのだ(一部、省略)。

「事前に新聞社に遺影を配ってたから、覚悟してた、って言う人もいますけどね、俺は、たぶん最後まで信じてたと思うんですよ。自分が本気を出して行動すれば、もしかすると、世界は動くんじゃないかとね、期待していたと思うんですよ。」
「『やっぱ駄目かあ』とは思ったんじゃないですか。で、自決ですよ」
「そこまでして何かを伝えようとした、という事実が衝撃なんですよ。しかも伝わらなかったんだから、衝撃の二乗ですよ。別に俺は、あの事件に詳しいわけじゃないですけどね、きっと、後で、利口ぶった学者や文化人がね、あれは、演出された自決だった、とか、ナルシシストの天才がおかしくなっただけ、とかね、言い捨てたに違いないんだけど、でもね、もっと驚かないといけないのはね、一人の人間が、本気で伝えたいことも伝わらない、っていうこの事実ですよ。三島由紀夫を、馬鹿、と一刀両断で切り捨てた奴らもね、心のどこかでは、自分が本気を出せば、言いたいことが伝わるんだ、と思ってるはずですよ。絶対に。インターネットで意見を発信している人々もね、大新聞で偉そうな記事を書いている人だって、テレビ番組を作っている人や小説家だってね、やろうと思えば、本心が届くと過信しているんですよ。今は、本気を出していないだけで、その気になれば、理解を得られるはずだってね。でもね、三島由紀夫に無理だったのに、腹を切る覚悟でも声が届かないのに、あんなところで拡声器で叫んでも、難しいんですよ」

伊坂幸太郎「砂漠」より引用

 自分はこの小説の該当の部分を読んだ当時に、鈍器で殴られたような衝撃を受けたのを覚えている。ヒトに物事を伝えるのがどれだけ難しいか、というのを凄く表している。しかも著名人が誠心誠意、文字通り命をかけて訴えたって伝わらないものは伝わらないのだ。じゃぁ、どうしたらいんだろう?研究者はどのように一般社会にコミットして、説明をしたら良いのだろう?と随分と考えさせられたのを覚えている。

 そして、週末に眺めていたツイッタランドで、まさに同じ事が起きていた。どんなに真摯に説明しても伝わらないヒトには伝わらないのだ。その研究者の方は、どこまでも真摯に対応をしていた。でも説明をすればするほど(ネット上で、その議論が目立てば目立つほど)汚い言葉で絡んでくる人達が次から次へと沸いてくる。そういう人達に支えられているかのごとくに、最初に絡んだ謎のアカウントはヒーローにでもなったかのように、無敵になっていく。その自尊心が肥大化していく謎のアカウントを見ていて、本当に気持ち悪かったのだ。身震いするほど心の底からの嫌悪感を抱いた。

 伝わらないのだ。頑張っても頑張っても全く伝わらないのだ。まさに「あんなところで拡声器で叫んでも、難しいんですよ」だ。この噛み合わない議論の先にあるものは何だろう?不毛な大地での不毛な消耗戦を見ていた。私が助けられる分野ではないだけに、何も出来ずに見ていた。心の中で研究者を応援している。ただ、その先になければならない「真実を伝えること」が出来るのか。

 なお、先ほど紹介した西島君は「あんなところで拡声器で叫んでも、難しいんですよ」なので、ひたすらに我武者羅に行動する人間だった。

「目の前で、子供が泣いてるとしますよね。銃で誰かに撃たれそうだとしますよね。その時に、正義とは何だろう、とか考えててどうするんですか?助けちゃえばいいんですよ」
「ピンチは救うためにあるんでしょうに」

伊坂幸太郎「砂漠」より引用

 というキャラクターだ。すがすがしいまでの行動派であった。そして彼の科学に対するスタンスはこうだ。

「科学のおかげで便利になったのは確かですけどね。ただね、真実だからって偉そうに話していいかっていうと、それはまた別物ですよ。逆にね、みんなを興醒めさせちゃうんですから、もっと申し訳なさそうにすべきなんですよ。」

伊坂幸太郎「砂漠」より引用

 こういう台詞を紹介すると科学クラスタからは嫌われるんだろうと思う。でも「確かにそうかもしれない」と読んだ当時の自分は思ったのだ。でも、それは彼のキャラクターに飲み込まれていたのかもしれない(彼は、自分のこと、自分の限界、無力さ、無能さを全て理解したうえで、丸っと全てを受け入れて(飲み込んで)行動する。とにかく情けないけれども格好いいのだ)。今まさに「あんなところ」で戦う人達をみて、もし同じようなことが自分の専門領域で起きたときに自分は何が出来るんだろうか?と再び考えていた。そして、あんなところにある戦場に新たに参戦していく年配の研究者の方達をみて、自分もあぁなれるだろうか?と眺めていた。

「助けちゃえばいいんですよ」
「ピンチは救うためにあるんでしょうに」

 西島君の台詞が頭をぐるぐる回る。私は色々と迷った時に「子供に胸を張って説明出来るか否か」を良く考える。そこに照らしあわせるのであれば、自ら戦場は作らず、でも自分の専門領域ならば迷わず救いにいけるような研究者でありたい、そう思った週末の夜であった。

 

 

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