何故女ばかりが「男でも女でもなく「人間」として見て欲しい」と言うのか

 

 「男でも女でもなく「人間」として見て欲しい」という言葉を何故女性ばかりが言い立てるのか。しばしば「(多くの西欧語でそうなっているように)旧来の価値観では「人間」とは男性であって、女性は「人間」扱いされていないからだ」などと言われるが、女性が「人間」扱いされているか否かは一旦措いておいたとしても、男性身体に基づく身体図式(認識と行為或いは感覚と運動の連関構造による、身体経験を通した自己理解と世界理解の統一的な枠組み)を基礎として主流となる人間観が形成されてきたことは確かに歴史的事実であろう。だがその主流となる歴史的人間観の検討(並びにその歴史的な「累積」)を云々する前に、まずは差し当たり性的身体に紐付けられた個人レヴェルの身体図式の次元で考えなければならない。


 このような主張は、仕事の成果や主張の内容など、凡そジェンダーに関わりがないように思える中立的な事象についての評価が、「女であること」のジェンダーによって阻害されていると当人に感じられている場合、ジェンダーに関して中立的に考えて欲しいという要求として女性から唱えられることが多い。しかし、「女であること」の「ジェンダー」が感じられるのは、その存在そのものをコンスタティヴ(事実確認的)に見る場合ではなく、その習慣や振る舞いをパフォーマティヴ(行為遂行的)に見た場合である。何となれば、「女であること」の内でコンスタティヴなものは、生物学的身体としての女性身体(つまりセックス)そのものに他ならない。ジェンダーという社会的・文化的な性はその生物学的身体以上の何かを述べようとしているのであるから、その身体をもつ人間を一つの「行為遂行体」として見た場合のことを意味していると考える他ないのである。


 先日、「「ジェンダー」は何故「セックス」へと舞い戻るのか−猥語と身体」という文章で論じたように、究極的な次元においては、この生物学的な身体に紐付けられた性的身体が形成する「身体図式」の原事実性の内に、ジェンダーはその基礎を持つと考えられる。ジェンダーを単に他のものに代替可能な社会構造の一部として捉える見方は、ジェンダーそれ自体が本質的に持っている身体性を無視して、それを余りにも観念的なものとして把握している。ジェンダーとは、認識や感覚の表現としての言表行為をも含めた行為遂行を通して理解されるのである。


 そう考えると、この要求は「パフォーマティヴにではなくコンスタティヴに見て欲しい」(「主張の正しさや仕事の業績だけで評価して欲しい」)ということを表現していると考えられる。しかしこれも考察してきたように、まさにそのような要求を行うことのパフォーマティヴな側面にこそジェンダーが現出すると考えられるのである。即ち、そのような要求を言表行為として表明する点にこそまさに女性ジェンダーが現れているということである。


 この現れとは、女性ジェンダーがそのような要求を聞いて貰えるものとして要求しているということに他ならないということである。これは「女性の人権」云々とはまた別の話である。というのも、そもそも男性は皆「人間」扱いされているのかと言えば、事実として決してそうではないからである。統計的には明らかなことだが、自殺も過労死も事故死も(そして戦死も)全て女性より男性の方が多いのである。にも拘らず、彼等は「男としてではなく「人間」として見て欲しい」などと終ぞ要求することはない。わざわざそのように要求すること自体が「男として」情けないことであるという男性ジェンダーの特質もまたその態度には含まれているが、同時に、そのような要求が男性にとって社会的に実質をもつ意味を成さないということもまた同ジェンダーの特質として含まれているのである。


 何となれば、男性ジェンダーはそのジェンダーのパフォーマティヴな次元のみならず「コンスタティヴな次元でも」常に既に冷酷な評価に曝されているのであり、男性がわざわざパフォーマティヴな次元を抜きにして評価して貰おうとする言動に利点が全く無いのである。これは要するに、例えば「男らしくはないが主張の内容は正しい」とか「男として情けないが仕事は出来る」と認めて貰うよう要求することに積極的な意味があるのか、というようなことである。そうした事態がそれこそコンスタティヴに存立することは十分考えられるし現にあることだが、そのように評価されることを要求する男性の言動をパフォーマティヴに見た時に利点はほとんど考えられないだろう。それを言うこと自体が「男らしさ」を捨てる情けないことであるばかりか、そもそも初めからコンスタティヴに行為の結果や言動の内容が評価されているからである。


 対して、女性にとって「「人間」として見て欲しい」という要求はそれが(特に男性に)聞き入れて貰える見込みがあるが故に、コミュニケーション上の一つの言表行為として意味を成すものである。しかしその見込みは、主張する当人がまさに(女性の身体をもつ)女性である点に、つまりは(そのセックスとジェンダーの双方を売りにして)男性に要求して聞き入れて貰えるジェンダーであるという点に由来するという矛盾的な性質を持っていると言える。Twitterでは「女は下駄を履かせて貰っている」とよく言われ、そのように初めから価値あるものとして扱われる「女性性」(ここではセックスとジェンダーの複合体と考えたい)のことを(究極的には女性器に集中する男性にとっての性的価値に由来するという点から)「マンコパワー」という卑俗極まりない言葉で形容されるが、そうした女性性に起源を持つものとして、先述したジェンダーのパフォーマティヴな特性が発出していることは否めないのである(これについては私も「「マンコパワー」を「切り売り」することの「マンコパワー」−元AV女優のインタビューを診る」という別の文章でその一例について書いたことがある)。


 初めに、ジェンダーとは、生物学的な身体(セックス)に紐付けられた性的身体が形成する「身体図式」の原事実性に起因するものだと述べた。それを女性の次元において考えると、巷間「マンコパワー」と呼ばれるものが、「身体図式」の原事実性という個人的体験のレヴェルにおいても、そのパフォーマティヴな表出のレヴェルにおいても、どうしても問題になる(先に挙げた記事には後者の観点における問題の一部を書いたのだが、これは男性が女性に阿らずに書いたならばどうしても「酷い」ものにならざるを得ない話である。しかし同時に、フェミニズムの本質的な動機の一つもまた、この契機に起因すると思われる)。


 そのような理由からして、大抵の場合挙げられる「人間の尊厳」の如き「それ自体が非常に強固にコンスタティヴに考えられた観念」は、実のところ、人間同士の(というか大抵の場合は両性の)具体的な相互の行為遂行において問題になっていないのである。寧ろ、性という枠組みを外して人間の尊厳の承認を要求することによって、その理由と関係無いものも含めて諸々の実利的な他の要求が聞き入れて貰えるという点に、女性ジェンダーのパフォーマティヴな意味がある。だがそれが女性ジェンダーによって齎されるパフォーマティヴな利点であるにせよ、当の同じ女性ジェンダーによって、「主張の内容や仕事の業績だけで評価される」というように女性の行為遂行がコンスタティヴに見られる事態が少なくなってしまうのは事実であろう。男性ジェンダーにおいては日々自らのコンスタティヴな側面が冷厳な評定に掛けられている点を考えると、女性ジェンダーはこの過酷さを「免じられている」と考えることも出来るだろう。ともあれ、このことを女性であるが故に背負わされたジレンマに思う優秀な女性も数多くいる筈である(これが所謂「ガラスの天井」問題の起源である)。だがそうした女性が自身の置かれたジレンマを告発する場合、当の女性ジェンダーによるパフォーマティヴな利点は全く被らないようにする、という条件を呑めるのかと言えば、これは極めて怪しい。女性ジェンダーに下駄を履かせる側である男性側もまた、現実の女性(或いは「女体」)を目の前にした時、このような見方をどこまで続けられるか、怪しいものである。このような女性ジェンダーの特質は、女性にとって一種の天恵であると同時に呪いのようなものでもあるのかも知れない。

(本記事は投げ銭方式ですので、ここで終わりです。)

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