「歴史家達の闘い」についての雑感

 最近、主に歴史学周辺で「知識がない人の自由な発想」の問題が大きな論議を引き起こしているようである。一躍ベストセラーとなった『応仁の乱』(中公新書、2016年)をはじめ、多くの専門的な啓蒙書を上梓している気鋭の日本中世史研究者の呉座勇一氏(国際日本文化研究センター助教)は、百田尚樹氏や井沢元彦氏、或いは久野潤氏や八幡和郎氏といった、歴史学者ではないが歴史についての通俗書を執筆している著述家達と日夜論争を繰り広げている。「戦う歴史学者」と呼ばれる呉座氏は、妥協なく徹底的に、非学問的な議論を斥けている。その論戦に、一躍ベストセラーとなった『観応の擾乱』(中公新書、2017年)を著した日本中世史研究者の亀田俊和氏(国立台湾大学助教授)なども参加し、戦線は拡大の一途を辿っているようである。

 それは一言で言えば、史料を厳密に読解することで最も確実であると思われる事実を精査することを自らの任とする専門の歴史学者と、史料の厳密な読解よりは、むしろ面白く、理解がしやすく、意表をつくような物語性を重視する歴史学プロパーではない著述家の間の戦いである。事実、歴史家の書く実証的で学問的な記述は「面白くない」から「本当の歴史」ではなく、作家の描く歴史物語は「面白い」からこれこそが「本当の歴史」だ、という全く「反知性主義的」な声すら見かけた(こうした声は、しばしば「司馬史観」を巡って発せられてきたものと相似形である。尤も、上に挙げられた人々の著作と司馬遼太郎の小説ではその「面白さ」を語る際の密度は比ぶべきもないが)。

 そして歴史学者達の内部でも、同様の趣旨をめぐる論争が繰り広げられている。「歴史『を』学ぶのではなく歴史『に』学ぶのは危険。『物語』が欲しいならワンピースやスラムダンクを読んで」と言う呉座氏と、それに反論する本郷和人氏(東京大学史料編纂所教授)の論戦。そして直近で言えば、東島誠氏(立命館大学教授)の新著論文「「幕府」論のための基礎概念序説」(『立命館文学』660、2019・2)をめぐる歴史学者達(と歴史ファン達)のtwitter上での論議、とりわけ、twitterにおける先述の亀田氏による猛々しい反論は、多くの耳目を集めている。

 日本中世史学は門外漢でもあるので専門的な議論に深入りするのは避けるが、こちらで問題になっているのは、どうやら、マックス・ヴェーバーの理論などを援用して歴史を説明する東島氏らの言わば「理念」派と、そうした理念的な説明は史料の実証に合わないとする亀田氏らの言わば「実証」派の対立のようである。

 実際、少し気になって東島氏の論文を一読してみたので、(中世史の内実は措いて)この対立点だけを、門外漢の粗い整理ながら極々簡単に一瞥してみよう。東島氏は、石母田正や佐藤進一といった嘗ての日本中世史学の泰斗、そして丸山眞男をヴェーバー受容(とりわけその支配の正当性の理論)の観点から読み直し、理念的分析の重要性を強調する途上で、佐藤進一説を実証的に批判する亀田氏の説を〈理念型〉への無理解と見做して再批判を行っているようである。それに対して、亀田氏はそのtweetにおいて、その理念的分析も実証に基づいて出されたものであり、現代ではその理論が実証的史実に合わないことがまさに実証できるからこそ批判した、実証的史実の充実こそが理論構築に先立つものとして重要であるはずではないか、といった論旨で反論しているようである。

 歴史家と通俗歴史書作家達の対立が実証か物語かであり、歴史家内部の対立は実証か理念(理論)かという対立であるようだ。勿論ここで、歴史学を専門にしていない作家達が作る物語と、歴史家達が構築する理念(理論)は目的も精度も異なるものであるから、等価に扱うことは出来ない(前者がそもそも手続きからして非学問的なものであるのに対して、後者はれっきとした学問的なものである)。しかし、物語も、理念(理論)も、何らかの総括的な「価値」(ここでは歴史の「見方」)を志向するものであるとは言えるだろう。

 私としては、この一連の論争を側から見ていて二つの興味を抱いている。
一つには、「事実と価値」という古典的な対立軸が「事実と理念」という形に翻案されて、対立点になり続けているということである。しかも歴史学の場合どうやら、嘗てヘゲモニーを担っていた「理念」派に対して若手の「事実」派が反攻を仕掛けているという構図になっているようである。そこでの「事実」派の意図は、理念同士の誤読し合いや対立は不毛だからこそ、実証的史実の充実に専心しなければならない、というものだ。行き着く先は、「事実と理念」という対立をまさに実証の方から解消し、無効化することにあるように思われる。

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