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『誰もが主体的に活躍できる社会をめざして』

行政での社会教育担当職員だった5年間を経て、今年の4月から公営塾の事業に携わっている。

社会教育と学校教育がまざりあう絶妙な学びの場を共創するなか、教育における価値観のベースはこれまでと変わらない。

キーワードは“主体性”

私が目指すのは、学ぶことも、あるいは学ばないことも、何をいつどこで誰となぜどのように学ぶかということも、一人ひとりの人間が生きるうえで自ら主体的に考え、行動できるということ。

前職2年目のぺーぺーだったころに受講した社会教育主事講習で学び得た価値観は、今の私の原点にもなっている。

時を経てちょくちょく言葉はアップデートされていくけれど、今後もきっとブレない(ブレたくない)価値観として、note記事に残しておこうと思い立った。

※以下の文章は、2017年夏に神戸大学で受講した社会教育主事講習の修了時に執筆した8000字のレポートを(主に自分用の記録として)一部編集したものです。

1.はじめに

 今から45年前、1972年に刊行されたユネスコの『Learning to Be/未来の学習』(フォール・レポート)において、「to have/持つこと」ではなく「to be/あること」を重視する生き方が提唱された。全ての人間にとって、持てるものの量には物理的な限りがあるが、自分という存在がどうあるかについての可能性は未知数である。個々人にとっての生涯学習とは、富や名誉を得るためではなく、未来に向かって「自分がなりたい自分になる」プロセスであると解釈する。
 しかし現実はどうか。私の持つ視野の中では、(もちろん例外も多々あるが)社会で多くの人が規律や慣習や常識という概念に縛られ、他者の目を気にしながら難なく生きることに必死である。マスメディアによって人の価値観が画一化された結果、そこから外れてはいけないという暗黙の了解ができてしまったようだ。
 他者によって決められた価値観の中で生きることは、ある意味楽なことなのかもしれない。人間にとって本質的な問いや課題に思い悩むことなく、生活の中で困ったことがあれば、インターネットで検索をすれば誰かがすぐに答えを教えてくれる。自分で考えたり、他者と対話や議論をしたりすることはエネルギーを使うことだから、そんなことよりも自分の財産や快楽を増幅させることに時間と労力を割いた方がいい。特に私と同年代の若者世代では、そういった感覚が当たり前になってきているように見受けられる。
 こんな世の中で、「自分がなりたい自分になる」ことは、相当の自覚と勇気がいることだと考える。そしてその絶対条件として、「主体性」は最も欠かせないものであるのではないかと思う。
 私は、私が持つ資質の一つとして、主体性があるほうだと自覚してきた。自分の人生は自分で決めるという意志を当たり前に持っていた私は、これまでの人生において、どちらかと言えば、主体性とは生まれ持った性質のようなものであると理解していた。しかし今回の社会教育主事講習を通して、その考えは根本から覆ることとなり、そのことが一番大きな気付きでもあった。
 本レポートでは、この講習で体験し学んだことと自分自身の変容に焦点を置きながら、「主体性」について私なりに考えたことを総括し、社会教育の実践や実務にどのように活かすことができるかについて述べていきたい。


2.「主体性」とはどのようなものか

 講習の序盤、様々な講義の中で、社会教育の場において学習者の主体性が不可欠であることが強調されていた。学校教育のように決められた枠組みや教科書がない学びの場での主体性の大切さは即座に納得できたが、やはり現実には、主体性を発揮することが難しい状況が多く存在するように思えた。
 実際、「主体性のある私」を自負していた私だが、初回のグループ演習の際にその現実を痛感した。張り切ってグループの世話人に立候補したはいいが、「インクルージョンと社会教育」という壮大なテーマで、行政職員2年目の自分よりも明らかに年齢や立場が上の人たちと、まったく見通しの立たないグループ活動をすることに、楽しみよりも不安が勝っていた。「自分は必要とされないのではないか」という自信のなさが不安の主な原因であった。「本当に自分が世話人になって良かったのか」という葛藤も生じた。
 ここで、多くの人にとって、社会や集団の中で主体性を発揮しようとわずかでも初めの一歩を踏み出すことはできても、その気持ちを削がれるような困難に打ち勝つことが大きな課題となるように思えた。そしてその困難には、インクルージョンの対義語としてグループで議論したイクスクルージョン(排除)が大きく関わっているのではないかと考えるようになった。
 主体性とは、最初から個々人に内在するものではなく、こういった困難を乗り越えるプロセスにおいて磨かれるものであり、社会教育においてインクルージョンを実践し排除をなくすことは、その大きな助けになるのではないか。そのような仮説を持って臨んだ実地演習では、様々な立場の人の「現実」を知り、そこでどのようなつながりが生まれ、どのような実践がなされているのかを見て感じることができた。
(中略)
 すべての現場や活動に共通して、参加者の主体性が他の参加者との関わりのなかで発芽し育っていくプロセスが確かにあった。ここでいう「参加者」とは、「(狭義の)参加者」・「主催者」・「支援者」等のすべての人を指すものであり、どのような立場の人であっても、他者との関わりの中で自ら学び、主体性を磨くことができるということである。主体性とは、「主体」に対して「客体」があるからこそ成り立つもので、個々人が向き合う社会や集団の中で、まずは他者を知り、他者と自分との関係を知ることからスタートするものであると考える。そういった意味で、多様な他者と関わり合い、認め合うことができる場、すなわち、ある程度意図的なインクルージョンを実践する場は、そこに集うすべての人の主体性を相互作用的にはぐくむ場であるともいえるのではないだろうか。


3.「主体性」とはどうあるべきか

 実地演習を終えグループ演習も後半に入ると、グループのメンバー全員が、演習の着地点として報告会やグループレポートという目に見えた成果を出さなければならないという焦りに苛まれていた。世話人としても、何とか方向付けをしなければと必死であった。だが、この段階でまたしても、今度は良い意味で現実を知ることとなった。
 実地演習で得た内容についてグループのメンバーと意見交換をするなかで、それぞれの報告の中身ももちろん充実したものであったが、メンバーの職種や経験、個性、価値観の違いによって着眼点も異なり、想像以上に様々な角度からの意見を出し合うことができた。また同時に、なんらかの正解を作り上げることに必死だった私たちが、それぞれのちがいに気付き、諦めることなく向き合い、認め合い、各々の言葉で語られた思いを分かち合うことができた瞬間でもあった。
 そこから先は全員が同じ目標に向かって、自分の得意なことやできることに取り組み、それらが形になっていく躍動的な過程において、全員がこのグループにインクルージョンされているという何ともいえない感触があった。それまでは世話人として自分一人が特別に頑張らなければならないという思いがどこかにあったが、複雑に絡まった糸がするっとほどけるように気持ちが解放された。
 この時点で、「主体性」とはどうあるべきかについて、ある程度私なりの答えが出せたように思う。一つは、先述した内容とも少し共通するが、主体性は一人歩きできるものではなく、それぞれの「主体」からみた「客体」の主体性によって、相互にはぐくまれるべきであるという考えだ。
 この前提が崩れてしまうと、ある特定の人間が誤った主体性を発揮することによって、他者の主体性が抑圧されてしまうことになる。歴史上ではナチス政権の独裁政治などがその極端な例であるが、日常生活においても、無意識下にそういった現実があるのではないか。様々な組織や集団において、すべてのことを決定し指示を出してくれる「ボス」がいるとすれば、その支配下にある人間は「ボスがすべて考えてくれる」「自分の考えは必要とされない」という人任せの状態に陥ってしまう。フレイレの『被抑圧者の教育学』においても、未完成な存在である人間の人間化の過程で、「人間を意志決定から疎外することはかれらを客体物に変えてしまうことである」(Freire,P.,1979 小沢ほか訳,1970,p.91)と述べられている。抑圧されているという自覚があるうちはまだ良いかもしれないが、冒頭に述べた通り、現代社会において多くの人が無自覚に絶対的な「客体」になってしまっているように思われる。
 そしてもう一つは、個々人が発揮しうる主体性は、その場その場で形を変えることができる柔軟なものであるべきだということだ。わかりやすく言葉を発したり、集団の先頭に立って進むべき方向を示したりすることだけが、必ずしも主体性の体現ではない。他者からの影響を受けながら、自分とは異なった意見を積極的に聴いて受容したり、また自分の中で考えを深めたりすることも、相互的に主体性をはぐくむうえで重要なことである。
 グループ演習の終盤では、メンバー全員のそれぞれ異なった「気付き」を集約することで、最終的に社会教育主事として大切にしていきたい共通認識を結論づけることができた。(中略)


4.「主体性」をはぐくみ活かすことのできる社会教育の実践のありかた

 社会教育主事講習のカリキュラムを終えた私は、自分自身が主体的でいられるのは、何よりも他者によって支えられているからだということを強く実感していた。同時に、この力を自分の中だけに留めるのではなく、社会教育に携わる者として、広く社会に働きかけていきたいと思えるようになった。ここから先は、これまでに得られた気付きや成果をどのように実践に活かすことができるかについて考えていきたい。
 その前提として、まずは第2グループでの演習の結末に見出すことができた『インクルージョンを達成するために我々が大切にしたい三つのこと』(ニーズをつかむ、人をつなぐ、ファシリテーション)のサイクルについて、私なりに再度考察したいと思う。これまでに述べてきたことをふまえると、このサイクルはインクルージョンを叶えるためのものであると同時に、そこに包含されるすべての人の主体性への働きかけにもなると考えるからだ。
 社会教育に専門性をもって携わる者としては、単に「ニーズをつかむ」だけでなく、つかんだニーズを可視化し、それぞれの人間が多様な他者を知るきっかけづくりに寄与するべきである。様々な立場の他者と関わっていく過程で、他者が持つ課題やニーズを社会や自分との関わりにまで拡大し「自分事」としてとらえることができると考える。そのうえで「人をつなぐ」ことの意味合いとしては、世代間交流や異文化交流も含め、できるだけ異質な人同士を三次元的ないし四次元的に結び付けることが重要ではないかと考える。多様な他者との関わりにおいて、同質な者同士では得られない経験をすることで、断片的ではなく、どのような場でも軸のぶれない「ひとつなぎの自分」という存在に気付くことができる。そうして芽生える主体性に、効果的な「ファシリテーション」が加わることで、活動の継続性を促進するとともに、個々の主体性を顕在化することが可能となる。
 もちろん、一周ではなかなかうまくいかないことは容易に想像できるし、逆順になることもあるだろうが、このサイクルを根気よく回し続けることで、相互主体的な活動の場がより一層充実したものになることは間違いないと考えられる。
 付け加えて、講義やグループ演習を通して学んだことを総括すれば、多様な活動や取り組みの拠点となる空間としての「場所」をつくることも、極めて重要なことであるように感じた。所々でキーワードとなっていた「居場所づくり」というのは、参加する人々にとっての心理的な側面が大きいものであるが、そこに行けば安心して様々な活動ができサービスが受けられるという固定的な価値にとどまらず、あらゆるものをインクルージョンし、多様な活動や人やモノが集積することによって偶発的にまったく新しい価値が生まれる可能性のある空間こそ、私たちが理想としたい社会教育の実践の場であり、広く社会に向けた発信の場である。主管をどこに置くかなどの課題も多くあるが、行政や民間団体、地域住民などが協働してこういった場所づくりに取り掛かることが望ましく思う。


5.地域での実践に向けて

 さて、このような理想的な社会教育のありかたを、実際に私自身が関わる現場に落とし込むためにはどうすれば良いだろうか。講習の中で様々な取り組みや施設を知り、その素晴らしさに感銘を受けてきたが、ひとつとして同じものはなく、どれもがその地域独自の課題や特性をうまく反映させたものであると感じられた。まずは地域が今置かれている様々な状況を見つめ直し、どこにどのようなニーズがあるのかを感じ取る必要があると考えた。
 市職員としての私の仕事の現場であり、また市民としての私の生活の場でもある奈良県大和郡山市は、江戸初期から様々な産業が営まれ活気のある城下町として栄えてきた。必然的に様々な文化が栄え、人的資源も豊富で、昭和50年代から平成時代前半にかけては地元の青年団体などを中心に、地域の祭りや子ども会など多世代が関わる取り組みが盛んに行われていたようだ。
 思わず過去形になってしまったが、それらの活動そのものは現在にも引き継がれている。しかし、どの団体や活動にも共通して、運営するメンバーの平均年齢は上がり、若者の力がどんどんなくなってしまっているという現状がある。高齢化が大きな社会問題となり、市の人口は減り続け、若者の絶対数が減少していることも大きな要因だが、それ以上に複雑で構造的な問題をはらんでいる気がしてならないのだ。
 地域にとってどんなに意味のある活動でも、それを担うマンパワーがなければ成り立たない。本来はずっと同じメンバーで活動をし続けるのではなく、流動的に新たなメンバーを迎え入れるためにも、子どもや若者を育て、引き継いでいくことが不可欠だ。しかし、社会の大きな変容により生活空間は広域化し、現代の子どもや若者(あるいはその親も含めて)には昔よりもはるかに多くの「余暇」の選択肢が与えられている。部活動やアルバイトはもちろん、幼少期から多種多様な習い事や塾通い、さらにはスマートフォンの普及による生活空間を超えた見えない他者とのつながりなど、枚挙に暇がない。多くの子どもたちにとって、地域社会との積極的な関わりは軽視あるいは無視されるようになってしまった。
 そのような中で、市の行政が携わる社会教育事業はどのような意味を持つのだろうか。当市の教育大綱の基本理念には、「ふるさと郡山に夢と誇りと自信を持ち 未来を拓き 未来に駆ける 心豊かな 人づくり」とある。社会教育が「教育」である限り、やはりその場において「人が育つ」ことが大きな目的であり、「人が育つ」プロセスの中で、主体性がはぐくまれることが非常に重大な要素であると考える。一人ひとりが「自分がなりたい自分になる」ことも大切だが、地域社会に生きる人にとって、地域に無関心であることが当たり前であってはならない。社会教育の活動の大多数が地域に根差したものであることは、ここに大きな理由があると思われる。主体性のベクトルが地域社会やまちづくりに向けられるような社会教育の実践が必要であるといえる。
 どの活動や団体においても、後継者となる若者の不足は慢性的な課題であるが、「若者の不足」という一方的な見方では、当の若者のニーズをつかめないまま、結局は若者が排除された状態になってしまう。子どもや若者が中心となる活動の中で、彼らと向き合い、対話をし、そこからまた新たにどのような活動に結びつけていくことができるかを共に考えながら、彼らが活躍できる場を地域が一体となって主体的に創造していく必要がある。
 また、今ある事業や取り組みでは目を向けられていない現実も多くあるのではないかと感じている。市の南部にある工業団地には、外国人労働者やその家族が少なからず暮らしているが、同じ地域で働き生活をしながらも、私自身その実態を知らないままでいる。障がいを持つ人や高齢者などについても、昔から市の事業に関わりをもつ一部の方々を除き、あえてそういった人と新たにつながりを築けるような取り組みはできていないのが現状だ。
 社会教育担当課はイベント担当課だと誤認されている節も見受けられ、見た目に派手なイベントで注目を集めることに限られた時間や労力を割かねばならない一方で、本来なすべき仕事ができない状況に担当職員として多大なジレンマを抱えている。これはある種最も困難な組織の問題でもあるが、担当課を離れて色々な職員の方々と関わっていく中で、またどのような仕事に携わるときも、社会教育の重要性を意識的に、そして継続的に周囲に働きかけていきたい。同時に、今後もスキルを磨き続け、その場に応じたファシリテーションができるようになることで、まずは自分自身も含めた職員の主体性の向上に尽力できればと思う。


6.おわりに

 「地域での実践に向けて」と銘打ったものの、前述のように当市の社会教育の現状には、実践以前の問題が多くあると分析する。何か行動を起こしたところで、すぐにその効果が期待できるようなものでもないし、失敗することも多くあるだろう。しかし、現状を悲観するだけではどうしようもないので、常になんらかの希望を忘れずに持っていたいというのが私の基本姿勢である。
 この仕事をしていると、時々まったく予想もしないようなことが起こり、そこに社会教育の新たな可能性を感じるといったことがこれまでにも多くあったように思われる。今後はそういった奇跡をただ待つばかりでなく、柔軟な発想で今ある場所や事業や人材を活かし、つなぎ合わせることに注力して、自ら真の主体性をもって働きかけることによって、人づくりやまちづくりに取り組んでいきたい。そして、未知の学びの可能性を潰さないという意味合いでも、一人ひとりに寄り添って心を交わし、誰一人置いてきぼりにすることなくインクルージョンできるような社会教育の場をつくることを私のポリシーとしていきたいと思う。
 今回の社会教育主事講習で学んだことや多くの人たちとの出会いは、行政職員としてだけでなく、一個人としての私にとってもかけがえのない財産となった。長い人生のうちのたった3週間という短い期間ではあったが、仕事に追われる日々のなかで忘れかけていた人間らしい活動や議論や感情の動きを、たくさんの人との関わりのなかで取り戻すことができたと感じている。一人の学習者として参加したこの講習そのものが、社会教育の実践の場であった。この感覚を決して忘れることなく、未来の私へ、そして社会へとつないでいきたい。

<参考文献・資料>
・松岡廣路・松橋義樹・鈴木眞理編『社会教育の基礎』学文社、2015年
・パウロ・フレイレ、小沢有作ほか訳『被抑圧者の教育学』亜紀書房、1979年
・『大和郡山市教育大綱』2016年策定


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あらためて読み返すと、「青いな~」と思う反面、「4年前の私、えらかったな~」という感想。笑

この経験が無かったら間違いなく今の私は存在しない。
ここまで教育に深く関わることもなかっただろうし、イコール公務員の仕事を辞めて移住することもなかっただろうなと。

ぬるぬる楽しくやるのもそれはそれでいいけれど、たまには突き詰めて考えないとね、という自戒も込めて、なにか迷ったら読み返そうと思える文章です。

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