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教育とは③

どいの#週1note
火曜日の更新です!

すこし空きましたが…
↓のシリーズの続きです。


社会教育とは(復習)


前回は社会教育がどのようなものかについて
わたしの思いを書き連ねました。

その位置づけについて
あらためて図示してみた。

めっちゃフリーハンドですんません。笑


生涯学習の内側にあるマルたち
以前は横並びの形で描いていたような気がする

でもやっぱり
あらためて社会教育の位置づけを考えてみると…


学校教育家庭教育
『学校』や『家庭』という箱があって
はじめて成り立つものであり

たとえば

それらの箱から
なんらかの理由で
弾かれてしまうような境遇の人

学ぶ権利は絶対にあるはず
(そういった状況を作らないようにするのが
国や行政の使命でもあるけれど)

だれもが学ぶことを拒まない場として
社会教育はあるんじゃないかな?と

実際、言葉に表すのは難しいように
一番、境界線が曖昧だし

曖昧であるべきだとも思う



社会教育“的”教育


これまで散々、社会教育を推してきたわたくし

このような文脈のなかで
引き合いに出しやすいのが学校教育なんですが

決して学校教育を否定したいわけではないです。

わたし自身、学校教育を受けて
とてもたくさんのことを学んだし
学んだことがいまの自分の礎となっている
と感じている。


カテゴリ分けをしちゃうと
学校教育と社会教育は
どうしても別物になっちゃうわけですが

どい的社会教育の3大要素
①社会との関わり
②フラットであること
③主体的であること
前回の記事「教育とは②」より


人が何かを学ぶときに
一番大切なのは、おそらく
モチベーションというか
目的意識というか
気持ちの部分が大きいと考えます。

何者かにやらされて
単に作業としてやる勉強ほど
身にならないものはない
というのは
誰もがきっと経験しているんじゃないかな

そういった意味で
学校教育のなかにも
社会教育“的”な要素は必要だと思う


そしてこれについて語る際に
教育という言葉そのものに
とっても違和感を感じてしまうのです。



教育≠共育


教育とは

読んで字のごとく
教え、育てること


もちろん文脈によるもので

あくまでも
社会教育について考えるときに
という流れで捉えてほしいのですが


教育という言葉には
“教える側”のエゴ
どうしても感じざるを得ない


社会教育においては

誰もが教える側で、教えられる側でもある

もはやそんな立場なんて
自覚していない場合がほとんど

漠然としたものであっても
みんなが学びたいという意思をもって
空間や時間をともにする

共に育み合うのが
ほんとうの教育なんじゃないか?



はい。この、

みんなが学びたいという意思をもって
空間や時間をともにする

というやつ。


これが成立する場というのは
意図的につくらないとできない
場合がほとんどです。



それってどんな場なんですかねぇ。


…と

まだ回収しきれていないテーマがあるので


次回こそ、回収しまして

教育とはシリーズの総まとめにしたいと思います。



…引っ張るな~笑


時間の都合も大いにある。
本日もギリギリ滑り込み…


では!

#週1note マガジンの方もよろしくどうぞ~


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アイキャッチはザ・社会教育的なものを。

どいの地元であり、職場である地域で
いきいきと活躍するシニアリーダー

シニア、というので誤解されやすいけど
子どもたちにとってのシニアであり
高校生~大学生の若者たちの団体です。笑


次世代のリーダーとなれる子ども・若者を
育てるための研修会(野外活動)を
シニアリーダー自ら企画・運営します。

恒例のキャンプファイヤーでは
シニアリーダーがゲームをして盛り上げたり
研修生が班でスタンツ(出し物)を考えたり…

若いっていいな!と
たくさんの力をもらえる場です。

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