プロレスの練習生だった話30

入団した当初は初夏だったがあっという間に秋が過ぎ冬になった。
そろそろデビューしてもいい頃という期間を過ごした。
それでも月に何回かの興行で練習が不足していた。

興行前、リングの練習では足にヒビが入った状態でもロープワークをこなした。
学校で不意に足をくじき、クリームパンほどの大きさに足が腫れていた。
それでも歩行に問題もなく少し痛む程度の痛みだったので休むことなく貴重な練習を無駄にはできなかった。
自分の憧れていた対抗戦時代の諸先輩は少しの骨折でも試合をしていたと本でも読んだ。
レスラーはそういうものなのだろう。という認識だった。
医師からテーピングの巻き方を習い見よう見まねでテーピングをし、練習に参加した。
また、この頃は腰痛もありレントゲンを撮った結果
だいぶ昔に腰を疲労骨折しており放っておいた結果骨が変なつき方をし神経に触っているといわれた。
この腰痛はストレスが高いと決まって痛む。
あるカウンセリングのセッションを受けピタリと痛みは無くなったが、ブリッジなど腰の負担もあったのでこれは生涯付き合う痛みなのかもしれない。

ある日の練習では受け身を一通りこなした。
前受け身後ろ受け身、前後の倒立受け身、ドロップキックの受け身、空転
これを流れるようにやる。
形としてやるのは簡単だが頭を打たない本来の意味での受け身としてはまだまだ成長途中だった。
細かい着地の足の位置などかなり厳しく教わった。
また先輩との一連の攻防などで実際にクローズライン(ラリアット)を受け、受け身もとった。
ある程度の技なら受け身を取ることは可能にはなった。
また、ボディスラムなどの投げ技、首投げなども形にはなった。
ここまで練習回数が少なくてもどうにか形にできていたのは前所属の2団体で基礎を教わったからだと思う。

千葉に入団する前、プロレスラーとしてデビューができたら何年続けるかという話を同期としたことがある。
自分の中では19歳の入門から25歳が限界だと思った。
それが大したバックボーンを持たず、細身の体で続けられる自分の体力的な限界なのだろうと思った。
そうした想いもありデビューは早く達成したかった。

しかしある練習で体を痛めた。
マットを2枚敷いたところで垂直落下式の技を受けた。
北斗選手の代名詞ノーザンライトボムと三田選手の開発したデスバレーボムだ。
威力と見栄えの良い技だがそれは使い手と受け手の技量によっては大怪我をする。
受け身は先に記した通りのことはできる。
しかしこれまで一度たりとも垂直式の技を受けたことはないし受け身も知らない。
受け身の基本として顎をクッと首に入れ目線はヘソを見るように首を丸める。
念のために先輩に断りをいれた。
その受け身はしたことない。と
大丈夫。
何が大丈夫なのか知らないがインディーのプロレスでは何件か練習生の不慮の事故もあった。
そのための断りだったのだが。
お構いなくノーザンライトボムを受ける。
体が垂直に落とされるのはなかなかの恐怖感がある。
三半規管からくるくらっとしたものはあるが受け切ることはできた。
続いてデスバレーボム。
飛行機投げの体制から首を掴み相手の体重と共に落とされる。

首は無事だった。しかし相手の体重と自分の体重が落下した脇腹付近に一気に刺さり呼吸ができなくなった。
脇腹を捻るような痛みだった。
受け身は取れてる。
と先輩は言っていた。
それならばこの痛みはなんなのか。
痛みと共に怒りが湧いた。
少なくとも技をする前に形として落とし方や着地の仕方をなぜ指導しないのか、他の先輩は受けれると思って2人の先輩に技をやらせたのか。

不幸なことに練習生のメニューをいつも考えてくれる責任者の先輩が不在であり憧れていた先輩など数名が各々に練習をしている環境だった。

千葉では絶対ありえないことだな。
正直なところ自分のなかのプロレスは千葉が一番技術的にも指導的にもあっていたし恵まれていたと思う。
自分が選んだ道なので自業自得なのは尤もなのだが
怪我や不慮の事故があったのならばどうするのか
そこを考えたとは思えないこの日の練習に激しく怒りを感じた。

覆面の先輩は唯一脇腹を痛めたことに気づき大丈夫?と声をかけてくれた。
痛めましたとだけ返事をした。

数十分ほど休みまだ痛む横腹だったが次にジャーマンスープレックスをまた別の先輩から受けた
これも受け方を習っていない。
ジャーマンの受け身は仕掛ける側も負担が大きいのでそれとなく説明された

慣れない受け身を何発も行い、頭もクラクラする中ではよく咀嚼できなかった。

練習が終わり解散した。

大阪に拠点を移しストレスが高まったことにより当時タバコの味を覚えた。
練習場から程近い喫煙所で煙草を吸い電車を待った。
脇腹は変わらず痛く首もダメージがあった。

精神的に何故か少し落ちた。
12月になり学校では資格勉強やらなんやらがあった。
国家資格になるので相当の勉強は必要になり、試験は年明けとのことだった
勉強もしなければならずバイトも繁忙期になるため12月はほとんど試合や練習に顔を出すことはなかった。
責任者の方には学業が少し落ち着くまでお休みしたいと伝え快諾された。
自分の中で落ちたメンタルを整える時間も必要だった。

カウンセリングは変わらず受けた。
そして、先の体を痛めた時のことを話した。
カウンセラーは『君は周りが卵で生まれる中既に鳥として生まれているように思える』と解釈をした。
つまるところ、羽化したら雛として誕生をし、親鳥から生きる術などを学び自我を芽生えさせる
しかし自分は既にこうなりたいというものを持ちそれが明確すぎるのではないかと言った。
続けて『もしかしたらあなたはすでに自分がプロレスラーにはなれない事に自分自身が気づいているのではないか』と話した。
動揺した。
即座に『そんなことはない。諦めなければ絶対になれます。なって見せます。』と応えた
心理学を学び、また力動派と呼ばれるセラピーを数年受けてきたので多少心で心を考えることはできる
動揺をしたのは先生の解釈がまさにその通りだと思ったからだった。

心のどこかで既に限界だった自分がいた。
限界というより自分のなかの骨となっている部分は千葉でのプロレスだった。
それが自分の中では親鳥そのもので自分はそれを完全になることなく巣立ってしまった。
なので他の団体でもひと通りのことはできてもその先にいけなかった。
千葉を離れたことは大きな失敗だと認めたくない自分が何処かには確かに存在していた。
しかしそれに気づかないフリをした。

衝撃的なカウンセリングを受けつつ、プロレスラーになって見せると啖呵を始めて人にきった。
年末は実家に戻らずアパレルのバイトをし夜は試験勉強をこなした。
そして年明け、1月の中旬に再度復帰することを責任者の方に伝えた。

1月15日
この日は自分の中で22歳の誕生日だった。
19歳からプロレスを目指し3年が経過していた。
昼間は学校に行き、学校が終わるとバイトがあった。
バイトが終わり新年会も兼ねて飲み会があった。
年も近く明るい性格のメンバーには救われた部分や見習うところもたくさんあった。アパレルでのバイトは自分の中ではリフレッシュできる時間でもあった。
誕生日プレゼントにお菓子も店長からもらった。

翌日は学校なので早めに帰った。
1/16
この日は学校が五限まであった。
五限は先輩との交流も兼ねた時間だった。
先輩と言っても歳は変わらなかったが悪ガキ達みたいな先輩には可愛がってもらった。
その時間ある出来事により右腕を負傷した。
初めは脱臼かと思ったがしばらくするとものすごい痛みに襲われた
すぐに折れたとわかった
駆け寄り腕を触る先生らに触んなと毒付いた。
こんな時でもプロレスの試合を思い出した。
北斗選手と神取選手の横浜での伝説的な試合で神取さんが脇固めで北斗選手を脱臼させたシーンのオマージュさながらに。
救急車で病院に行くかタクシーを呼ぶかで職員室はうるさかった
どうでもいい早くしてくれと叫んだ。
事の顛末を知らない空気の読めない先輩が呑気に折れたんですか~?と聞いてきた
見ればわかるだろと吠えた。

タクシーがつ近くの接骨院に運ばれた。
なぜ救急外来ではないのと思ったが早く固定して欲しかった。
右腕の指先感覚がなく激しい痛みで何度も気絶しそうになった。
1時間くらい待たされた。
やっと固定できと思ったが帰ってきた言葉はうちではできないから大きなところで見てもらって。

1時間待たされこの言葉か。
30分くらいタクシーに乗り府内有数の大型病院に運ばれた。
救急扱いで見てもらえたが当初担当していたのは研修医クラスの人で固定の前に問診などがあった。

レントゲンをとり、昨日誕生日だったの?
と技師も驚いた。
そしてよく骨飛び出さなかったね(複雑骨折)
と褒められた。
プロレスしてるんで、と消えそうな声で伝えた
だからか、筋肉で守られてたんだわ
と感心していた。

またも研修医の前に行き骨折してます。ここの部位が、と説明された。
既に意識が飛びそうなくらいな時に呑気に応えれるわけもなく固定してくれない医者を睨んだ。

そこに、整形のドクターがきた。
アイシングと固定をしてくれるとのことだった。
着ている服を切断する必要があると言われた。
この服はHAREで買った高い服なんで脱ぎます。とアパレルで働く人間のプライドで折れた腕をどうにか動かしニットを脱いだ。

診断名は右上腕螺旋骨折だった。
普通の骨折とは違い骨が螺旋状に折れているので治りにくく手術するのが一番良いらしい。

そして入院する事になった。
担当のナースの人に
プロレスしてるんですけどまたやれますよね?と尋ねた。


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