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残された日本の記憶〜飛騨の口碑から日本を知る〜『上巻』

皆さん、こんにちわ。

臥龍桜です。

今回は、天照大御神さんからの続きの様なお話になり、よりDEEPな世界に入っていきます。

かなり

『オカルト』よりになります。

がしかし。

読み進めて行けば

『オカルト』の本当の意味。

が分かります。

では一緒に更に長いお話の旅に出かけましょう。

まずは

オカルト界では有名な、、、、、

『竹内文書』です。

本当にざっと竹内文書の内容をお話しします。

興味がある方は、本など沢山出てるので読んでみてください。またはYouTubeにも内容を説明してくれてるのも沢山あります。

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飛騨高山にある位山という山付近に
神様が降りてきて。そこから人類を作った。
その1番最初の人であり、この世界を神様から
任されたのが。

『天皇(すめらみこと)』

その天皇は天の浮舟(あまのうきふね)という
乗り物で世界各地を見て、色々な事を世界の
人々に教えたり見守っていたりしました。

文明は今現在の文明より発達しましたが、
人々の心が荒み、何人かの人々と天皇を救い
それ以外の人々を文明を津波や地震、噴火などで滅亡させました。

その様な事を繰り返しました。

そして、1番最初に位山に降りた神様は
地上の事を全て、天皇に任せてこの地から
居なくなりました。

日本自体も大噴火や地震などでかなり深刻な事態になりました。

その間に、世界各地も独立した力をもち
天皇の教えなども忘れていきました。

しかし、それを憂いた

『聖人』と言われる

モーセやイエスキリストなどが天皇に教えを聞こうと日本に来て教えを聞き、世界中に広めました。

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本当にざっとですが、この様な内容になります。


さて次は

竹内文書の内容ではなく。

竹内文書を世の中に出した

竹内巨麿(たけうちきよまろ)さん

についてお話しします。


『竹内巨麿さんとは?』


竹内文書とは、世間的には

『偽書』として扱われています。

竹内文書自体は、オカルト界では有名ですが

竹内巨麿さん自体の詳細は余り知られてはいません。

なので、竹内巨麿さんのざっくりとした
経緯などをお話ししたいと想います。

竹内文書は竹内巨麿さんが世の中に
公開して広まった本です。

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竹内巨麿(たけうちきよまろ)さんが竹内家に
養子になり、のちに巨麿と名前を変え竹内巨麿になりました。

竹内巨麿さんの出生などは色々と諸説が
ありどれが正しいのかは未だに分かりません。

竹内巨麿さんの出来事を少しお話します。

竹内巨麿さんは

* 富山県で生まれ。幼少のとき、母が暴漢に襲われ自殺、そのあだ討ちのために修行を思い立った。

* 1893年(明治26年)祖父から遺言で『世の中が平和になったときに公開せよ』として譲り受けた宝物・文献を携えて上京。

宝物・文献は知人に預けて、東京御嶽教本部(とうきょうおんたけきょうほんぶ)に入信。

鞍馬山とさらに奥にある大悲山で千日間にわたり修行した。

そこで『大己貴尊』(おおなむちのみこと)をはじめとする神霊や修行者から神法道術や神代文字を学ぶ。

* 1899年(明治32年)宝物・文献を持って、茨城県北茨城市磯原に引っ越す。

そこで治病祈祷などで人心をつかみながら信者を獲得。宝物・文献を一部の人に公表。

* 1910年(明治43年)秋、神代(神武天皇以前)の時代から伝わる真の歴史書であるとして

『竹内文書』を一部に公表。
この文献・神宝類を『経典』として皇祖皇太神宮を復興、天津教の開祖となる。

* 1930年(昭和5年)- 1944年(昭和19年)
『天津教弾圧事件』が起きる。

* 1945年(昭和20年)3月、押収された文献や『宝物』は無罪判決後も巨麿には返還されず、東京の司法省に保管されていたが東京大空襲でほとんどが消失。

* 1965年(昭和40年)1月27日、他界。

竹内巨麿さんの出来事はざっとですが
この様な感じです。

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次に竹内文書の流れを見てみましょう。

1928年(昭和3年)に竹内巨麿が竹内文書を公に公開しました。

その当時の竹内文書は
今伝わっている様な内容ではありませんでした。

これが現在の形の様なオカルト的な内容に近くなるのは竹内文書の出版の版が新しくなる度に、、

『竹内文書の内容に加筆した事が原因としてあります。』


特に戦後に出版された『神代の万国史』は

大量に加筆されていました。

神代の万国史は名前こそ、竹内文書ではありませんが。

内容は竹内文書の資料集の様な物だと想っていただければ良いと想います。

少し余談を挟みます。

竹内文書には、もう1人重要人物がいます。

それは、酒井勝軍(さかい かつとき)さんです。

酒井勝軍さんは、簡単に言うと日本の軍人さんで、陸軍からの依頼でエジプト ピラミッドの調査やユダヤの研究をしていた人です。

『日ユ同祖論者の1人であります。』

日本でも、広島の葦嶽山(あしたけやま)を
ピラミッドと断定したり、青森県のキリストの墓付近でも、大石神ピラミッドを発見する。

この様に、酒井勝軍さんは日本の軍人で
また、特殊機関に属していた事から世間からしてみても、酒井勝軍さんの発言は信憑性が高いものと捉えられていたと想います。

その酒井勝軍さんは竹内文書に興味を示し
直接、竹内巨麿さんに逢いに行き
竹内文書の内容を教えてもらいました。

そして

昭和10年、竹内巨麿さんと一緒に

青森県戸来村(へらいむら)

現在は、新郷村(しんごうむら)に行き

ここにイエスキリストは墓があるはずだ

竹内文書に書いてあると言い。

探して墓らしきものを見つけました。

同じく昭和10年に

竹内文書を新たに版を新しくした時に

青森県のキリストの墓のお話を加筆したと想われます。

墓守りと言われている沢口家の人も

竹内巨麿さん達が来るまでは、その様な話は

一切無かったとお話されている様です。

この様な話から

青森県のキリストの墓というのは竹内巨麿さん達により作られたお話かもしれません。

作られたと言うよりも、竹内文書に書いてある墓を探し墓らしきものを見つけ。

キリストの墓にしたが正しいかもしれませんね。

しかし

ただ単に『キリストの墓にした』では終わらない

他の話があるのも事実です。

それは

青森県の新郷村(しんごうむら)のキリストの墓にイスラエル大使館の人達が来て

キリストの墓と言われている横にイスラエルと新郷村の友好関係を示す記念碑を作りました。

何故イスラエル大使館がわざわざ青森県の
新郷村に来てキリストの墓など風習を確認する為に来たか?何故わざわざ記念碑を作ったのか?


それは

イスラエルの国家機関

『AMISHAV(アミシャーブ、アミシャブ)』

彼らの任務は世界を股にかけて

『失われた10支族』を探し求めること。


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本当に簡単に失われた10支族とは何なのか
お話します

モーセ(モーゼ)が沢山の奴隷と海を割って逃げたお話を皆さん何となく聞いた事があると想いますが。

そのモーセとエジプトを脱出した人達。

最終的に行方が分からなくなった人達。

日本で言う所の部族などの事で
その行方が分からない部族が10部族あり。
厳密には12とか13とも言われている。
その部族を

『失われた10支族』と言われています。

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イスラエルのアミシャーブは

すでにインド、中国、ミャンマーなどで該当する部族(民族)を見つけて。

イスラエルへの『帰還』を果たした例もあります。

東方の地に逃げたという文章があり
インド、中国、チベット自治区、ミャンマー
など、シルクロード近辺を重点的に調べたと想われます。

ざっとですが、シルクロード近辺などの部族に伝わる話、風習、言葉、顔立ちなど最終的にはDNAなどを調べて

失われた10支族の末裔か末裔じゃないかを
調べていると想われます。

事実、言葉や風習、民族に伝わる歴史などを
手掛かりにしています。

青森県の新郷村のキリストの墓に
イスラエル大使館やアミシャーブがわざわざ来たのも

東北、日本にも失われた10支族が来ている痕跡があると調査したうえで来ているものと想われます。

また四国の劔山(つるぎさん)
諏訪大社などにも、調査で来ています。

簡単に結果だけお話すると

『イスラエル大使館、アミシャーブ は日本に失われた10支族が来ている可能性が高いと
想っています。』

それは、日本に伝わる伝統儀式や神社や石造りの遺跡や天狗やお祭り、お神輿などにイスラエルの文化との共通点が多々あるからとの事からです。

竹内文書のキリストの墓が捏造だとしても
裏にはこの様な話もあります。

一概にはただの笑い話には出来ない歴史が
眠っている可能性もあるんじゃないかと個人的には想います。

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これは個人的な意見ですが
お盆に旅行で青森に行ってキリストの墓にも行ったんですが、その時に沢口家の方にも
たまたま逢ったんですけど。

お爺ちゃんの目が青黒い目だったんだです。
綺麗な色でしたよ。
あの目を見たら本当にキリストが、、、、
って想っちゃいますよ(笑)

記念碑に白い薔薇を一本手向けてきました。


更に個人的にこのお話に関係性があると想うのが
少し前のお話ですが。

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東北の北の地方の一部の住人1割〜2割の割合で



『欧米の白人遺伝子ポリオーマウィルスA型』


があると東大や医学研究グループが発見しました。

この遺伝子を持っている人達は
瞳が青黒い色や緑色系や青系の瞳になる様ですね。

例として

赤ちゃんの時に青い瞳で産まれ
歳を重ねる事に青い瞳が緑色系になり
最終的に茶色、黒系な一般的な日本人の瞳になる。

ごく稀に青い瞳のまま、緑色系のまま 
という人もいます。

この事から、推測ですが。

日本人と渡来人との混血の人達が

東北地方で結婚して生活していた

証明になるんではないでしょうか。

また、このポリオーマウィルスは
東北の北の地方だけではなく

東北の北の地方から出て行って他の地方に行き結婚した人達にもあると想うので

本当によくよく調べたら全国的に
何%かポリオーマウィルスを持ってる人がいると想います。

この様に
ポリオーマウィルスの事をアミシャーブも
知っていたんじゃないかとも想います。

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皆さんどう想いましたか?

『イスラエルの失われた10支族』

もしかして本当に来ていたんじゃないかと想いませんか?

失われた10支族じゃなくても
ポリオーマウィルスの件から

青い瞳の渡来人が来ていた
可能性は高いんじゃないかと想いました。

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さて必要な事なので

また話は竹内巨麿さんのもう少し踏み込んだお話しから初めさせてください。

竹内巨麿さんは

御嶽教(おんたけきょう)に入信、弟子入りしたとも言われています。

御嶽教とは
祭神は国常立尊、大己貴命、少彦名命の

三柱の大神を祀り。

総称して『御嶽大神』と言います。

修験道を起源にしてると言っていますが
祭神から察すると神道が強い気がします。

竹内巨麿は御嶽教で修行した後に

鞍馬山、鞍馬山の奥にある大悲山で修行とあります。

鞍馬山、鞍馬寺の歴史は古く
770年鑑禎上人(がんちょうしょうにん)が
毘沙門天を祀った事から初まり。796年に
藤原伊勢人(ふじわらのいせんど)が
千手観音を祀った。

また、紫式部や源頼朝、武田信玄
豊臣秀吉 徳川家康なども訪れたり拝殿などを
再建されました。

後に天台宗の影響が強まり、天台法華・天台密教・天台浄土が取り入れられました。

鞍馬山は古神道や陰陽道(おんみょうどう)、修験道等の山岳宗教の要素も含まれている場所です。

宗派に捉われない懐の深さは鞍馬寺の宗教伝統となっています。

昭和22年初代管長 信樂香雲(しらがきこううん)は
このような多様な信仰の歴史を統一して鞍馬弘教と名付け。

昭和24年、鞍馬寺は鞍馬弘教の総本山となりました。

鞍馬山、鞍馬寺にはこの様な歴史があります。

僕が昔、御嶽教の1つの
御嶽教鞍馬山教会の方にお話を伺った時に
元々は、御嶽教だったけど時代の流れから
修行する人、修験道をする方が少なくなり
鞍馬寺と一緒になったと直接聞きました。なので『御嶽教鞍馬山教会』と言う名前になったと教えてくれました。

キリスト教などの『教会』とは関係ないそうです。

この様な事からすると
竹内巨麿さんは、昔から修験道の修行場に
なっていた御嶽山、御嶽教と鞍馬寺の交流的な事を知っていたんじゃないかと想います。

個人的には
鞍馬弘教が設立される前から、繋がりがあったと想います。

御嶽教、鞍馬寺、鞍馬山、大悲山で修行したとありますが。

それ以外にも古代の

歴史などを学んでいたと想います。

神代文字を教えてもらったとあるので

当然、それにともなう歴史も教えてもらったと想います。

話は鞍馬山、鞍馬弘教の話になります。

現在の鞍馬寺、鞍馬弘教では

毘沙門天・千手観世音・護法魔王尊の三尊が

一つになった尊天を祀っています。

この『護法魔王尊』は別名

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『サナート、クマラとも言われています。』

1850万年前に金星から来た地球の物質的世界の神の代理人として来て、人類、生命体の

進化の統括者であると言われています。

簡単に言うと金星から来た人で

地球の人類、生命を進化させるために来た。

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金星人であり、地球の王様みたいな感じですね。

この様な感じになったのは

鞍馬弘教(くらまこうきょう)を作った

信樂香雲(しらがきこううん)が

神智学と言う大昔からある学問に触れ

『神智学協会』に

影響を受けたからと言われています。

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※神智学協会が後の話でもかなり重要になります。

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何か?竹内文書や竹内巨麿さんから話が
それてない?

と想うかもしれませんが。

この辺りの話をしておかないと
話がわけわからなくなってしまうと想いますので、もうしばらくお付き合いください。

神智学とは?から始まります。極力簡単にお話しします。

では本題へ行きましょう。


神智学とは何か?

古代ギリシア語で

神を意味する=テオス

叡智を意味する=ソフィア

この言葉を合体させて=テオソフィア

これを直訳すると『神の叡智』

神の叡智を学ぶということで

神智学と言われています。

本当に簡単に言うと

イスラム教、キリスト教、仏教などなどの

全ての宗教の根本は1つです。

宇宙の普遍的法則、自然の普遍的法則

その法則を作ったものを、『神または、超越者』

その超越したものが持っている

『知識、知恵を神智』とし

人もまた知識、知恵を持っている

その知識、知恵は、超越したものと同じで

人は霊的認識、魂の認識、自分の魂を強く、美しくする事で超越したものに近くなり

超越したものの知識を得ることができる。

本当に簡単に言いましたが、こんな感じです。

また

同じ神智学でも、神智学協会と言うのを

立ち上げた

ブラヴァッキーさんとオルコットさん

この2人が立ち上げた

『神智学協会』は簡単に言うと

今お話した、神智学をベースに

西洋と東洋の智の融合を目指す。

互いの秘密を公開する事で

西洋と東洋の宗教的対立を超えて

超越したものの知識を根本に

融合を目指す為に活動していたのが

『神智学協会』です。

神智学協会が西洋と東洋の知識の

融合を目指す行動が後に

アメリカで起きた

『ニューエイジ運動と呼ばれる運動に繋がります』

ニューエイジ運動とは

簡単に言うと

**人間の潜在能力の無限の可能性の強調、宇宙・自然・生命などの大いなるものとのつながり個人の霊性・精神性の向上など。 **

(ガイア思想)

『地球は1つの生命体である。』

神秘的であること(あらゆるもの・日常の中に聖なるものを見出すこと)

地球的であること(愛・あわれみ・平和の推進、世界政府樹立の推進)

この様な主張を掲げる運動が起こりました。

ちなみにブラヴァッキーが書いた本

『シークレット.ドクトリン』の一文に

混沌の深みより出たる最初の大天使は、ルキス(ルシファー)、光り輝く暁の子・・・

彼女は、ニューエイジの母体組織ともなった神智学協会の創始者となり、この本のなかでは幾たびもルキス(ルシフアー)を礼賛します。

ルシファーはキリスト教によって悪魔にされてしまった『真の光の神』であり
宇宙開闢(かいびゃく)のときに現われた

『最初の神』という捉え方です。

これが現代のニューエイジに受け継がれているそうです。

余談ですが。

ルキスはラテン語でルシファーを表すそうです。

キリスト教などでは

ルシファー=サタンが同一視されています。

ルシファー=サタン=魔王です。

また日本では

金星=一番星=明けの明星になり

金星はルシファーの象徴とも言われています。

ということは

金星=ルシファー=魔王になる訳です

なので、鞍馬寺では魔王尊で

サナートクマラは金星から来た

この様な流れになります。


しかし!

気をつけなければいけないのは

ルシファー=サタンではない事です。


元々は、天使だ悪魔だ堕天使だ。

何て事は旧約聖書の元になった本や、旧約聖書、新約聖書にも書いてありません。

逆にポジティブな意味で使われていたりしました。

しかし、初期キリスト教の学者が

天使が堕天した意味だと言ってから徐々に

広まっていって、ルシファー=サタンになってしまいました。

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偉い人が言ってるから、、、聖職者が言ってるから、、、もしくは時代か。

何はともあれ、間違った誤訳から

広まったと想います。

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話には戻ります。

神智学協会を立ち上げた

ブラヴァッキーさんは、特にアジアなどで

修行を積んでいました。

また後に神智学協会が出した本の内容に

ヨガ 瞑想 チャクラ スピリチュアル 前世 妖精 ヒーリング 民間伝承 古代宗教  世界の宗教の秘密の解釈などの事が書かれており。

オカルト好きな人の関心を得ました。

ちなみに、オカルトは

『隠された事』という意味です。

日本では

オルコットさんが

1889年に日本に来日して

一部の若い仏教徒に評価を得ていました。

その当時、日本では神智学を霊智学と

呼ばれていました。

1910年には、神智学の鍵と言う本が

日本では、『霊智学解説本』として出されたが、一般に広まったのは

1970年〜1980年の心霊ブームやミステリーブームが広まった時でした。

神智学協会は分裂などを繰り返しているので詳細は掴みずらいですが

現在も

インドに本部があり、約70カ国に支部があり

会員は約3万3千人居るそうです。

神智学、神智学協会については

ざっとですが、この様な流れになります。

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余談?ですが『オカルト』とは『隠された事』という意味でしたね。

オカルトに付随することが今はメインになって本来の意味は置き去り状態ですね。

まぁ時代なんでしょうが、、、、

少し笑えることがあって。

ヨガをやってる人がオカルトとか苦手なんです〜とか言ってて、、、、

いや、、、オカルトなんだけど(笑)

これもまた時代なんでしょうね(笑)

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では『上巻』の纏めを軽くしておきます。


竹内巨麿さんが1893年 明治26年祖父から遺言で

『世の中が平和になったときに公開せよ』



として譲り受けた宝物・文献を携えて上京。

御嶽教に入信後、鞍馬山 大悲山で
1000日修行をし、神霊や修行者から
神宝道術や神代文字を教えてもらいます。

1910年(明治43年)秋、神代(神武天皇以前)の時代から伝わる真の歴史書であるとして

『竹内文書』を公表します。

この当時の竹内文書は今の竹内文書の内容などとは違っていました。

竹内文書、神宝類を「経典」として皇祖皇太神宮を復興、天津教の開祖となる。

1928年 昭和3年に竹内文書をおおやけに公開します。

弾圧など裁判や焼失などがあり

1965年 昭和40年に他界します。

現在も茨城県に高祖皇大神宮天津教として

存在しています。

現在はお孫さんが官長をしています。

ざっとですが

竹内巨麿さんに関しての纏めはこの様な感じです。

そこから分かる事を簡単に言うと。

御嶽教、御嶽教鞍馬山教会、鞍馬弘教、竹内巨麿さん自身が立ち上げた天津教

この全ては

繋がりがあったと言う事ですね。

そして

『その根底には神智学といものがあった』

1889年 明治22年

神智学協会のオルコットさんが

神智学を教えに日本に来てますね

日本各地でオルコットさんは

仏教擁護、キリスト教を批判の演説をしていました。

そしてオルコットさんは

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仏教も堕落していると当時の全宗派の指導者を集め話をしている。

全宗派の指導者が同じ場所に集まるのはこれが初めての事でとても珍しい事でした。

この事により

西本願寺などは

オルコットさんの講演で戒律を改めたそうです。

オルコットさんの影響力がいかに大きいものだったか分かります。


このオルコットさんの講演に来た人は

『100日間で20万人にもおよびました。』

北は仙台、南は熊本

全国33都市で行われました。

この様にオルコットさんの講演は

『日本の宗教や宗教家に多大なる影響を与えていたと想います。』

神智学自体の教え

神智学協会の西洋、東洋の統合

それ自体は素敵な事だと想います。

がしかし。

一言で、神智学と言っても

一言で、神智学協会と言っても

この2つに影響を受けたのは

良いものだけではありません。

代表的な所で言うと

オウム真理教などの俗に言うカルト教団なども影響を受けています。

どちらかと言うと、神智学協会の方に影響を

受けたと想います。

現代のオカルト スピリチュアルというものも

『その一つです。』

知らず知らずに、神智学、神智学協会の

影響を僕たちも受けていた事になります。

神智学協会はどちらかと言うと

チベット仏教や、仏教、ヒンドゥー教の

秘儀、秘密の教えなどの色が強いです。

先程、話したブラヴァッキーさん自身も

ヨガなどを好んでしていたので、本部がインドにあるのも納得出来るんではないでしょうか。

神智学協会というものが良い意味で影響を与え悪い意味でも影響を与える。

その様な二面性があるのも事実だと想います。

結局は、受け取り方の問題。受け取る人の気持ちの問題だと想います。

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今お話した様な事から

竹内巨麿さん自身も知らず知らずのうちに

色々な人達の影響を受け

御嶽教 鞍馬寺 の修行者達からも

影響を受け。

神智学協会のオルコットさんなどからも影響を受け。

祖父から受け継いだ竹内文書に多大なる影響を受けて。

天津教という宗教団体を立ち上げる事になったのではないでしょうか。


初期に公開した竹内文書には今でいうオカルト的な話やキリストの墓の話は書いてなかった。


しかし、先程言った様に

昭和10年

新郷村に行き墓を探し。

昭和10年新たに刷り直した

竹内文書には

キリストの墓の話を書き加える

この様な出来事がありました。

この様にキリストの墓など西洋の神や偉人と言われる人達が沢山登場する。

背景には、やはり神智学協会の影響が大きかったんじゃないかと個人的に想像できます。

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しかし、、、、、


ある意味ここからが本番です。

竹内文書には

正統竹内文書と言われる物があるのを
ご存知ですか?

正統というよりも

竹内巨麿さんは竹内家に養子になったんです。

という事は?

はい。そうです。

『本家』の方が居て、本家の方が

『正統竹内文書』を出したのです。

そこから見えてくる、、、

日本の歴史のカケラ、、、、、、、


では次回

『残された日本の記憶〜飛騨の口碑から日本を知る〜中巻〜』

でお逢いしましょう。

臥龍桜でした。


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