たいふうの目 上

 これまたちょっと前に書いた短編で「たいふうの目」という作品が発掘されましたので、参考程度に載せてみます。今回はちょっと長いので、カッコつけて上下に分けて掲載してみます。



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 どうやら明日は休校になるらしい。その理由としては、今はその兆候すら見られないが、どうやら今年一番大きな台風が今日から明日にかけて到来するらしいから、ということだった。別のクラスにいる友達からそう聞いた後、ぼくは一人で教室に戻った。時刻は午後三時半を指している。ぼくは頬杖をついて雲の合間に見える太陽を見るともなしに見ている。隣の席では複数の女子がおかしそうに笑いながら会話をしているけれど、その内容はぼくの頭には入ってこない。
 間の悪いことに明日はクラスメイトのお別れ会の日に当たっている。一日しか設けられていないお別れの日を台風でつぶされる不憫な生徒は一体誰なのだろうか。実はぼくはその生徒のことを知っている。でも、知っている、というのは単なるクラスメイトの一人として、ということではない。
 友達以上、恋人未満の、大切な人として知っている。
 彼方から吹く風が強烈さを帯びたように感じられた。それは風がぶち当たった窓ガラスの揺れ具合で判別がつく。窓のそばにいたやんちゃそうな同級生が、うおっ、と声を上げてその場から飛びのいた。そんな彼のことを茶化す仲間の生徒たち。取り立てて面白い光景とは言えない。でも、彼女にとってはそんな一コマも、この場所での最後の風景になるはずだ。
ぼくは彼女のことを見た。先ほどの彼らとはまた別の場所の窓際に席を持ち、ぼくと同じように頬杖をついているセミロングの黒髪。つまらなさそうに校庭を見ている。でもそれはきっと、台風にお別れの日をつぶされたからじゃない。元々彼女はそういう人なのだ。
 今のところ台風によるお別れ会の中止と別の日への移行に関する担任からの正式なアナウンスはなされていない。でも噂では中止のまま行われないんじゃないか、とのことだった。これも別のクラスで友達から聞いたことだ。なんでも、彼女自身がぼくらの担任に直談判をしたらしい。 
 その時、その担任が教室に姿を現した。
「席につけよー」
 のんびりとした声でクラスの皆にそう言った。面倒であることを隠す様子もなくだらだらと移動する生徒たちを、先生は何も言わずに見守っていた。果たしてそれが生徒への無関心から来るものなのか、この人の生来の温厚さからくるものなのか、もうすぐ二年の付き合いになるのにぼくはわからないでいる。どうでもいいことなのかもしれない。
「えー、紀本沙希のお別れ会の件だけどな」
 全員が席に着いたところで担任がゆっくりと、言いにくそうにぼくらに告げた。
「中止、になった」
 その途端、クラス中が少しざわめきだす。めいめい近くの人と顔を合わせて疑問を投げかける。ぼくは当の本人を見た。沙希は、隣にいる友人の女の子に突っつかれて困ったような笑みを浮かべていた。そして、その顔をぼくに向けた。すぐにそれが一層深くなる。おそらくぼくも同じような顔をしていたに違いない。
 担任が理由を説明し始めた。
「今日の朝早く、沙希本人から話があってな、引越しの日が早まって、用意があるからどうしても別の日は難しいっていうんだよ。おれは、だったら今日はどうだ? って提案したんだが」
 そう言って担任が沙希を見た。沙希はその表情のままうなずいた。担任が再び皆のほうを向いた。
「無理にそんな風にしなくても、自分から皆にお別れを言うから大丈夫です、って聞かなかったんだ。だから、今回は沙希の思いを尊重するって意味で、先生としても不本意ではあるんだが、なしということになった。すまんな、みんな」
 そう言って担任は軽く頭を下げた。皆がとってつけたようなため息をつくのが聞こえた。実際に、沙希が直接お別れを伝える人間は、いったいどれくらいいるんだろう。そんなことを思った。

 放課後になると、連れ立って帰る生徒たちの声が喧騒を作り出し、教室中を満たしていく。一部の友達の少ない生徒以外は楽しそうに笑いあいながらしばらくその場で話を続けている。でもこの喧騒は一時的なもので、しばらくするとこの教室には静寂が訪れることをぼくはちゃんと知っている。そして喧騒の後に残る虚無的な静寂のほうがぼくは断然好きだった。
 結局、その静寂の真ん中に残ったのはぼくと沙希の二人だけだった。
 ぼくらはどちらともなく顔を合わせ、そっと笑いあった。先ほど沙希が見ていた校庭から、野球部員の威勢のいい掛け声が聞こえてくる。その大声をバックに、沙希が自分の席から立ち上がった。
「今日、ね」
 小さな声で、誰にともなくいうように、沙希が口を開いた。実際にはその声はぼくに向けられている。
「先生に、やめて、って言っちゃったんだ」
 そう言ってはにかんだ。やめて、それは別れの会の事だろう。うん、とぼくは静かにうなずいた。
「涼ちゃんには、ごめんなさい、って思ったよ」
 うつむきがちにつづけた。うん、ぼくは繰り返す。
「でも、もっと素敵なこと、思いついたから」
 ぼくは沙希をしっかりと見た。微笑みながらゆっくりとぼくの場所に近づいてくる。机一枚隔てた場所まで来て、そのまま静かに止まった。
「私ね」
 顔を少し紅潮させて、沙希が言った。
「今日、ここに泊まろうと思うの」

 夕日の差す帰路をゆっくりと歩いている。重ね重ね、本当は台風なんて来ないと思わせるだけの説得力さえ持った夕焼け空だった。 
いろんなことを考えながら歩いていると、すぐに家についてしまった。ドアを開けて、リビングに入る。お茶をすすっている母に、カバンを置きながらぼくは声をかけた。
「今日、友達の家に泊まりに行っていいかな」
 母が驚いたような顔を見せた。お茶を机の上に置いた。
「なんで? 明日学校じゃないの?」
「ニュースでやってたじゃん。台風が来るんだよ。だから休みになる」
 ぼくがそう答えると、眉をひそめた不審そうな顔を見せた。
「なおさらなんでよ? 台風が来るのに友達の家に泊まるの? 家で待機しろって、学校に怒られないの?」
 ぼくは頭を掻きながら、
「平気だよ。ぼくが家にいる体にして、黙ってれば。うちの学校、非常時の連絡は、あらかじめ登録している携帯に来るんだよ。だから母さんや父さんに迷惑は掛かんないから」
 そう言って、母が何か返事をする前に続けた。
「大事な、友達なんだ。これを逃すと、もう会えなくなるような」
 それだけ言って黙った。母は何かを確かめるように、しばらくじっとぼくの目を見ていた。ぼくも黙ったまま見返す。そのまま数秒が経過して、やがて母が表情を崩した。
「あっそ。じゃあ、行って来れば? でも、しっかり自分の気持ち、吐きだしてきなよ」
 ぼくは黙ってうなずいた。こんな時、母の察しのよさには涙が出そうになる。
 自分の部屋に入り、荷物を整え始めた。1日、たった1日学校に泊まるだけだ。でも、胸が高揚して余計なものまで手に取ってしまう。いろいろなものを選別して、結局三十分程度そうしていた。軽く汗をかくくらいには動き回っていたらしい。
 まとまった荷物を傍らに置いて、ぼくはベッドの上に落ち着いた。そのまま窓の外の、暗くなった空に目をやった。漸く厚い雨雲が出始めて、明日に台風が到来するという事実が現実味を帯びてきた。その風景がぼくの高揚を一層膨大にする。台風。今ではその言葉を聞くだけでワクワクした。
ぼくは激しい雨が好きだったんだ。ふと思い出す。
 一時間後、ぼくは一階に降りて、冷蔵庫から取り出したお茶を一杯飲んだ後、行ってくる、と母に声をかけて玄関に向かった。
 靴を履いているとき、母が背後から何かを差し出した。
「ほれ」
 ぼくが肩越しに受け取ったのは、ラップにくるまれた中くらいのおにぎりが二つ入っているタッパーだった。
「夕食の足しにしな」
 優しくそう言って、うっすらと笑顔を見せた。まるですべてを見抜いているみたいだった。うん、と受け取って、立ち上がった。
「ありがとう」
 ぶっきらぼうにうなずいた母に促されて、ぼくは傘を持って外に出た。

 湿った風を体に受けながら、少しずつ暗くなっていく外を歩く。同時に、今日までの日々について、過去の様々なことが頭をよぎった。楽しかったこと、辛かった思い出、それこそ色々なことだ。その出現の仕方に規則性はない。だから次に何が思い出されるのか、ぼく自身にも予測ができない。元来ぼくは楽しかったことより、辛かったことの方が頭に残りやすい性格をしている。でも今日はなぜだか辛い思い出があまり出てこなかった。このことがいったい何を意味しているのかはわからない。
 そんな思い出に埋もれながら、ふと、沙希のことも考えた。
 沙希の引っ越す理由について、おそらく生徒の中で本当のことを知っているのはぼくくらいのものだろう。それは彼女の選択だから、ぼくがどうと言えることではない。彼女は自分で引っ越すことを選んだ。そしてそのことをぼく以外の生徒には黙っている。それは、彼女にしてみれば、自分の行為を「逃げ」だと揶揄されたくないがための自己防衛措置なのかもしれない。だとするなら、ぼくならそう判断しないだろうと思ってくれたのは光栄だった。そして、当然だがぼくは彼女のこの行為をそんな風には思わない。
 誰も、そんな風には思えないだろう。そうとも思う。
 空は灰色に覆われ、本格的な雨がいつ降り出してもおかしくないような様相を呈している。詩的という表現が果たして適切なのかどうかわからないが、壮大で奥深い風景だった。あるいは、今のぼくのノスタルジックな気分が、この風景をそのように見せているのかもしれない。実際、ここは幾度となく通った通学路に過ぎないのだ。主に沙希と二人で、いろいろなことを話しながら通った道に過ぎないのだ。
 沙希の父が自殺したと、沙希の口から直接聞いたのもこの道だった。
学校が見えて来た。時刻が早いからか、まだかろうじて門は開いている。だがまもなく誰かが閉めに来るだろう。その前に潜り込んで、今日1日をこの学校の中で過ごすのだ。それは沙希の、おそらく最後になるぼくへの「お願い」だった。

 教室の中ではすでに沙希が制服姿で待っていた。自分の席について、まるで授業を受けているかのように真っ直ぐと黒板を見つめている。ぼくは微笑みながら、気付いてもらえるように小さく咳払いをした。
 その行為に、すぐに沙希は反応した。ビクッと体を震わせてぼくのほうを見る。ぼくは表情をそのままに、そっと片手を上げた。そこでようやく彼女が安心したような笑みを浮かべた。ぼくはゆっくりと彼女の席まで近づいて行った。
 ぼくの席ではない、沙希の席の隣に腰を下ろして持ってきた荷物を置いた。カバンの中から、母が作ってくれたおにぎりの入ったタッパーを出す。一連の動作を、沙希は愛おしそうに眺めていた。ぼくは取り出したタッパーを沙希に差し出した。
「ぼくの母さんから。夕食の足しにしたらいい、ってさ」
 沙希は頷いた。そしてゆっくりとタッパーをぼくから受け取り、両手で抱えて笑った。ぼくにとってとても愛おしい仕草だった。
「おいしいね」
 二人でそう言いながら、薄暗い教室で早めの夕食と称しておにぎりを頬張った。何処かの誰かによる校内巡回はすでに終わっているのか、それともそんなものはそもそもこの学校では行われていないのか、廊下に人の気配は全くしていなかった。いつもの騒がしさが嘘のようだった。やはりこの静寂がぼくは好きだ。おそらく沙希もそうだろう。
「静かね」
 沙希がそう言ってそっと微笑んだ。ぼくは頷く。
「わがまま言って、ごめんね。どうしても涼ちゃんと二人きりで、お話ししたくって」
 どきりとするようなことを言ってのけた。ぼくはフフ、と笑って、もう一度頷いた。
「ぼくもだったから、いいよ」
 沙希が恥ずかしそうにぼくのことを見た。そして、つぶやいた。
「パパが知ったら、すごく怒られちゃうよ」
 その言葉に、不覚にも絶句してしまった。実際には、沙希はもう二度とパパに怒られることはないのだから。
 

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