銭湯の一抹

 最寄りのスーパー銭湯に行った時のことだった。
 適当に体を洗って室内湯を堪能後、露天風呂に浸かった。始めに入った湯の温度が思いの外高くて数分程度で見事にのぼせてしまったため、立ちくらみを感じつつそばに設置されていたリクライニングチェアに横になった。ほんの少し目を閉じるだけのつもりが、10分近くもそうしていたようで、気付けば体から水分は抜けて、ほんのり肌寒い感覚に襲われていた。ふと気づく。季節はもうすっかり秋で、暦は既に10月に入っていたことに。
 仰向けに寝っ転がっている形だったから、そこから埼玉の空がよく見えた。一面、重苦しい曇り空である。それもかなりどんよりしていて、そのせいだろうか、今日は朝から頭が何だか重かった。私がここに来た理由の一つでもある。要は瑣末に感じている疲労感のリフレッシュがしたかった。
 今後のことにうっすらと思いを馳せながら、何をするでもなくそのままぼーっとしていると、間も無く一人の中年が私の横のチェアにどかっと腰を下ろした。難儀そうに肩を揉む仕草を見せながら、付着しているかもしれない先人の垢などものともしない様子で、湯で流すこともしないままのチェアにバタリと横になり、そのまま人目も憚らず大きく息をついた。実に至福そうな顔をしている。おそらくこの人ものぼせたクチだろう。
 唐突に現れた中年を、しかし殊更意識するでもなくそのまま空を見ていると、しばらくのち、ふと真横から視線を感じた。思わず見ると、中年がニヤリとした表情で私のことを見ていた。一瞬、少しばかり気味の悪いものを感じたが、中年の表情を見るに、そこにあからさまな悪意があるようには見えなかった。私が頭に「?」を浮かべたまま中年のことを見返していると、その表情のまま彼は私に向かって言った。
「髭面少年、ってとこだな」
 私の疑問符が一層増えていく。無言で答えていると、中年はさらにニヤケヅラを深めながら、顔を覆う仕草をして見せながら、
「無精髭。何日目だ? あまり手入れが行き届いてねえから、お前っ、思わず笑っちまったよ」
 咄嗟に顔に手を当てると、なるほど私の顔からは明らかにザラザラとした質感が得られる。5日目だった。見ず知らずの中年からの唐突な指摘であることを忘れて、思わず苦笑してしまう。私の笑顔を見た中年は満足したように一人勝手に頷いた。
 とりあえず当たり障りのない会釈を返して、何事もなかったかのように再び空を仰ごうとすると、構わず中年はまた私に話しかけてくる。
「何か、悩み事かい?」
 私は目を丸くして再び中年の方を見ることとなる。中年はもはや完璧な笑みを浮かべていた。
「顔見りゃわかるぜぇ。悩んでんだろ? 人生の岐路に立ってるって顔だぜ」
 私は再び苦笑を浮かべた。そして今度は無言ではなく、中年に向かって言った。
「分かりますか。まぁ、大体そんなところです」
 私の声を聞いて、彼は、ふぅん、とニヤケヅラを保ちつつ、納得したのかそうでないのか判断がつかないような表情を潜めて息を吐いた。とりあえず頷いておく。
「あんた、見たところまだ若ぇのに、偉く落ち着いてんねえ。俺っちがあんたくらいの歳のころたぁ、そらお前、やんちゃし放題でよ、姉ぇちゃん引っ掛けたり酒浴びたりって、日々その日ぐらしなもんでぇ。そん頃は特に悩みとかも、まあ、そんなになかったわな」
 どこにでもあるような中年の自分語りに聞こえなくもない話だったが、妙に落ち着く、カラッとした話し方をしていた。少なくとも初対面の私がいきなり話しかけられても特に不快に感じないくらいにはすっきりとした人であるようだ。自分のことを「俺っち」と称する、いわば似非江戸っ子のような言葉遣いにも個人的には面白みを感じた。
「いや、そうでもないですよ。今年もう29ですし」
「バカおめえ、29っていやあ、まだ断然、バリバリだろうっての」
 私の歳を聞いた中年が、そんな言葉とともに豪快に笑い飛ばす。何がバリバリなのかいまひとつ分かりかねたが、あえて言うならバリバリに無職であることに違いなかった。そんなことはおくびにも出さず、少しばかり恐縮したように首を振っておいた。
「何があったか、酒でも飲みながら話す時間はあるべぇぞぉ」
 私の恐縮などどこ吹く風で、チェアで伸びをしながら私にそう言った。見ず知らずの、たまたま地元の銭湯に居合わせただけの中年に、こんなふうに声をかけられて、果たして一体どれくらいの人が「いいですよ、行きましょうか」などとホイホイついていくのだろうか? ただ幸か不幸か私はこの後の予定など何もなく、目下求職中の身である。また厄介なことに、暇にかまけて銭湯に赴き、何ならこの後どこかの居酒屋で一杯ひっかけて行こうか、などと思うくらいの懐具合でもあった。
 そんなわけで私はまんまと中年に、
「いいですよ、行きましょうか」
 想像通りの答えを出す始末であった。

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