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死生観の話 〜続き〜



もっと身近な別れ

先日の投稿で2024年に入って立て続けに身近な方、2件の訃報があり、死生観を考えさせられた。。と綴ったばかりでした。

その記事から1週間程度の間に2件の訃報がありました。
義父(妻の父)、子ども食堂の活動で初期から一緒に活動して来られた方、どちらも突然に近い状況下だったので愕然としました。
前回の死生観と今回の死生観が全く違う感じ方に自分なりに「なるほど」と思うところがあります。
人はいつ死ぬか、わからないから今を大切にしよう。といった事を前回の別れから感じていましたが今回は死生観というより先に「喪失感」を味わいました。
身近であればあるほど、「もう、いないんだ」といった感じの隙間風が心に吹いているような感覚になります。

骨は拾ってやるという言葉

日頃、こんな言葉を使いませんか?

「御愁傷様です」
「骨は拾ってやる」

どちらも人が亡くなった時に使ったり、必要な行為です。
何かにチャレンジしようとしている人に
「やってみろよ! 骨は拾ってやるぜ」
みたいな言葉かけをしたりするのを耳にしますよね。
もちろん、当たり前の言葉として聞き流していましたが、“骨を拾う“という行為は身近(特に肉親)な方が亡くなった際に看取りから、葬儀、火葬場までの流れで最後に変わり果てた遺骨の姿になった骨を拾う行為です。
義父の遺骨を拾いながら「骨を拾ってやる」と言って実際に骨を拾える関係の方が言っているケースってどれだけあるんだろう?と考えていました。
普段何気なく使っている言葉は、このような行為を指すのだと考えると軽はずみには使えないな、と考えてしまいました。

葬儀や法事でしか会わない関係

身内にせよ、今回のような日頃お付き合いをする機会の多かった方の葬儀に参列すると、久しぶりにお会いするといった方と対面します。
そんな時いつも
このような場面でしか会う機会がないな・・
と感じています。
会えない、会わない理由を「忙しいから」「特に会う理由がないから」といった風に考えてしまいます。
今回の投稿はオチもなく、とりとめもないままで終わりそうですがお葬式で会って「懐かしいな」と感じた感覚を大切にしたいと思っていて、だからこそこちらから会いに行く、メールを送ってみる、などアクションをしてみることにしました。
アクションに理由などいらないよね、っていうのが今回の気づき。
そういえばこの人と最近連絡とったり、会ったりしてなかったな。元気な姿が見られただけでも良かった。
その感覚は素敵なことですが、もう一歩踏み込んで
「あんな場面だったから、手短な挨拶しかできなかったけど、久しぶりに姿を見てまた最近どうなの?と言った話がしたいと思ったからメールしました」
メールやLINE、電話して、次に会う機会がお葬式やお法事以外になるきっかけを自分が動くことで出来るのでは?と思います。

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