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退屈の中に見つける自分らしさ『暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)』

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

退屈とは何か。なぜ退屈になるのか。退屈なとき、自分に何がおこっているのか。退屈は、良いものなのか悪いものなのか。退屈は、必要なものなのか不要なものなのか。

そんな問いに答え、考えさせるのが本書だ。

■ざっくり言うとこんな話(だと解釈しました)


『暇』は客観的な空虚であり、『退屈』は主観的な空虚。退屈は習慣化により生まれる人間ならではの習性。人間は退屈を嫌うので、その空虚を埋めようとする。では、その時に何をもってその空虚を埋めるのか。それが、「あなたらしさ」である。そして、それはあなた自身が本当にやりたいことなのか、“誰か”によって作られたものではないか。


■感想


自分自身の『退屈』について意識するようになった。退屈なとき、自分は何を感じて考えるのか。その考えは、自分のものか。無意識に人の考えに流されていないか。退屈に向き合うことは自分に向き合うこと。だから、たまに自分の退屈を客観的にみる機会を作りたい。そして、『退屈』というテーマに限らず、答えがないといについて考える時、哲学は重要な足がかりになることがわかった。本書冒頭の下記の一節が象徴している。

“人の生は確かに妥協を重ねる他ない。だが、時に人は妥協に抗おうとする。哲学はその際、重要な拠点となる。問題が何であり、どんな概念が必要なのかを理解することは、人を「まぁ、いいか」から遠ざけるからである。”


■各章のポイントメモ

序章「好きなこと」とは何か?


国が豊かになり金銭的にも時間的にも余裕があるとき、人は「好きなこと」をする。では、その好きなこととはいかにどこから生み出されるのか。

20世紀が生んだ文化産業は、余裕ができた人たちに「好きなこと」を与えた。労働者の暇は搾取されているのだ。なぜ暇は搾取されるのか、それは人が退屈を嫌うからだ。人は暇の中でどう生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか。これが本書の問いだ。


第一章 暇と退屈の原理論──ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?

パスカル「おろかなる人間は、退屈にたえられないから気晴らしをもとめているにすぎないというのに、自分が追いもとめるもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる」

人間は「欲望の対象」と「欲望の原因」を取り違える。 人間が退屈という病に陥ることは避けがたい。にもかかわらず人間は、つまらぬ気晴らしによってそれを避けることができる。その結果、不幸を招き寄せる。この構造を脱却するのが神への信仰なのである。

退屈の反対は快楽ではなく、興奮である。退屈しているとき、人は「楽しくない」と思っている。だから退屈の反対は楽しさだと思っている。しかし本当は違う。人間は興奮できればいいのだ。事件の内容は不幸であっても構わないのである。

ラッセル「幸福の秘訣は、こういうことだ。あなたの興味をできる限り幅広くせよ。そして、あなたの興味をひく人や物に対する反応を敵意あるものではなく、できるかぎり友好的なものにせよ。」

第二章 暇と退屈の系譜学──人間はいつから退屈しているのか?

定住革命により、人間は大脳へ刺激を与える手段を移動以外に求めた。それが、技術や政治経済システム、宗教体系や芸能を発展させたのである。


第三章 暇と退屈の経済史──なぜ“ひまじん"が尊敬されてきたのか?

レジャー産業は人々の要求や欲望に応えるのではない。人々の欲望そのものを作り出す。 定住は人類をいかんともしがたい「能力の過剰」という条件のなかに放り込んだ。それにより文化は発展したかわ、同時に退屈との戦いを強いられたのだった。


第四章 暇と退屈の疎外論──贅沢とは何か?


人は消費するとき、物を受け取ったり、物を吸収するのではない。人は物に付与された観念や意味を消費するのである。ボードリヤールは、消費とは「観念論的な行為」であると言っている。消費されるには物は記号にならないといけない。

余暇はもはや活動が停止する時間ではない。それは非生産的活動を消費する時間である。余暇はいまや、「俺は好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない時間である。逆説的だが、何かをしなければならないのが余暇という時間なのだ。

映画『ファイトクラブ』主人公タイラーは消費社会の論理にしたがったまま消費社会を拒否することでタイラーたり得ている。消費社会では退屈と消費が相互依存している。終わらない消費は退屈を紛らわすためのものだが、同時に退屈を作り出す。退屈は消費を促し、消費は退屈を生む。暇が入る余地はない。

ルソー。人間の本来的な姿を想定することなく人間の疎外状況を描いたもの。本来性なき疎外。それが、自然状態論。 戻っていくべき本来の姿などない。その疎外は暇なき退屈をもたらしている。暇なき退屈は、消費と退屈の悪循環のなかにある。


第五章 暇と退屈の哲学──そもそも退屈とは何か?


退屈は2つの要素により成り立つ。引きとめと、空虚放置だ。引きとめとは、時間がのろく、ぐずついている状態。空虚放置とは、物が私たちに何も提供してくれない状態。

物が言うことを聴いてくれず空虚放置され、そこにぐずつく時間による引きとめが発生することで退屈の第一形式「何かによって退屈させられること」が起こる。

退屈の第二形式は「何かに際して退屈させられること」。これは第一形式と異なり何がその人を退屈にさせているかが明確ではない。

退屈の第三形式は「なんとなく退屈だ」となる状態。この中で人間は自分の可能性を示される。その可能性とは「自由だ」。退屈であるということは自由であるということだ。


第六章 暇と退屈の人間学──トカゲの世界をのぞくことは可能か?


人間だけが退屈する。なぜなら人間は自由であるから。動物は退屈しない。なぜなら動物はとらわれの状態にあって自由ではないから。人間は環世界を相当な自由度をもって移動できるから退屈する。


第七章 暇と退屈の倫理学──決断することは人間の証しか?


ハイデガーの結論と提案まとめ。1.人間は退屈し、人間だけが退屈する。それは自由であるのが人間だけだから。2.人間は決断によってこの自由の可能性を発揮することができる。 ハイデガーは人間について環世界を認めていない。

人間は習慣を作り出すことで自らの環世界を形成する。それを強いられている。そうでなければ生きていけないから。しかし、習慣を作り出すとそのなかで退屈してしまう。

結論


1.本書は倫理学についての本だが、こうしなければああしなければという制約はない。本書を通読して暇と退屈について新しい知見を得ることがすなわち暇と退屈の倫理学の実践になっている。

2.贅沢を取り戻すこと。贅沢とは浪費することであり、浪費するとは必要の限界を超えて物を受け取ることであり、豊かさの条件であった。際限のない消費と比べて、浪費は物を過剰に受け取ることだから限界がありどこかでストップする。そこに現れる状態が満足である。

3.人は高い環世界移動能力をもつから同じ世界に留まっていることができず退屈する。環世界に何かが不法侵入して思考を余儀なくされることで一時的に退屈から逃れるが、すぐに習慣によって見慣れたものになる。人は決断して奴隷状態に陥るなら、思考を強制するものを受け取れない。

しかし、退屈を時折感じつつも、物を享受する生活のなかでは、そうしたものを受け取る余裕を持つ。これは楽しむことは思考することにつながるということを意味する。なぜなら、楽しむことも思考することも、どちらも受け取ることであるからだ。人は楽しみを知っている時、思考に対して開かれる。

世界には思考を強いる物や出来事があふれている。楽しむことを学び、思考の強制体験をすることで、人はそれを受け取ることができるようになる。人間であることを楽しむことで、動物になることを待ち構えることができるようになる。これが本書の結論だ。

付録 傷と運命──『暇と退屈の倫理学』新版によせて

なぜ人は退屈するのか? サリエンシーという概念を用いる。突出物や目立つことという意味。精神医学におけるまだ慣れていない刺激の意味。自己と非自己の境界がこれにより決められる。最も再現性の高い現象として経験され続けている何かが、自己の身体として立ち現れる。

人間は刺激を避けたいきもかかわらず、刺激がなければ不快な状態に陥る。


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