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写真からみえる関係性を考える『まなざしに触れる』

アート作品の見る意味はいくつかあると思うのですが、わたしは「こんな考え方があるんだ」と作品を通じてアーティストの考え方を知ることが面白いと思い、展覧会に行ったります。しかし、作品だけからはその考え方の理解が追いつかないこともあり、その時に助けになるのが批評です。

『まなざしに触れる』-鷹野 隆大
https://www.amazon.co.jp/dp/4801000479/

本書もまたそうしたアートの批評書のひとつで、鷹野隆大さんという写真家の作品を、新城郁夫さんという大学教授の方が批評しています。作品については「鷹野隆大」と検索すると出てくるのでみてみてください。男性のヌード写真が多いです。

その男性ヌード写真の中に、被写体(モノ)としての男性以外に何が写っているのか。その写真を撮影した鷹野さんは、何をみていたのか。それは、どんな意味があるのかについて、解説しています。

カメラマンの友人に「この本、読んで感想教えて」と言われて渡され読んだので、その友人に説明するイメージで本書をかいつまんでみます。

著者が主張する、鷹野さんの作品に現れる意味ですが、以下のようにまとめてみました。
あくまで私自身の解釈である点、ご容赦ください。

■鷹野さんの作品
メッセージ:身体は避難都市(人の秘密が交錯する場所)であるということ
メッセージが現れるところ:①男性が男性をみるまなざし、②身体の傷、③影
そのほか写真が捉えるもの:関係性の喪失を残すということ

それぞれわたしの解釈を説明していきます。

メッセージ:身体は避難都市(人の秘密が交錯する場所)であるということ

鷹野さんの作品に人は誰しも秘密を持っていて、その秘密は社会から隠されているから秘密になっている。そして、その秘密が隠され、避難されるのが自分自身の身体である。逆に言うと、その人の身体をみれば、その人の秘密がわかるとも言えると思います。
たしかに、極端ですがリストカットなどはその秘密が現れている象徴的な例といえます。何かしら社会の中で難しさを感じ、解消の手段として行った行為の結果がリストカットの傷に現れる。それは大抵衣類に隠されていて、その傷が現れた時はその人が難しさを感じていたという秘密も含めて露わになる。

メッセージが現れるところ:①男性が男性をみるまなざし

このメッセージがあるという前提に立つと、なぜ男性の写真家である鷹野さんが男性のヌードを撮るかがわかってきます。それは、その作品を通じて「男性が同性である男性を性的に意識してみるまなざし」を追体験できるからであり、それは避難させる秘密として象徴的なものであるからです。

男性が男性を愛するということが、当事者にとってまだ簡単に公にできない状況であることは明らかです。そして、その同性愛の感情がマイノリティであるからこそ、そのほかのマジョリティには感情の理解を助ける方法があってしかるべきで、この写真はその装置になりうると思います。

出所:http://www.kyoto-seika.ac.jp/info/files/2018/08/0820_dm.jpg

たとえば本書の最初に紹介されるこちらの作品では男性の手と手が重なり合い、性行為に及んでいる最中のようにも見えます。おそらく、マジョリティである異性愛者の人の中には男性同士の手がこのように重なっていることについてぱっと見の違和感を覚えた人も少なくないでしょう。
では、この下の手が女性の手だったとしたらどうでしょう。性行為という秘密にされるべき状況は変わらずとも、それが異性愛というマジョリティの状態になることで、より“秘密にしなければいけない”度合いは下がるように思われます。
つまり、男性どうしの愛であるからこそ、秘密を避難させる都市としての身体が際立つと思うのです。本書で紹介される鷹野さんの作品の多くが、この男性へのまなざしを追体験することによる秘密の覗き見感が強いと感じられます。

メッセージが現れるところ:②身体の傷

そして特徴的なのが、登場する男性の持つ傷が目につくところです。実際に傷ついた原因が何であるかは別にして、そこに、社会的に負った精神的な傷が見え隠れするように見えます。社会的に負った精神的な傷とは、同性愛として生きる上での生きづらさや、パートナーとの関係によって生まれたものです。被写体の全体像が映る写真も多いのですが、傷や皮膚を接写したものも多く、その意味性がより引き立って感じられます。

メッセージが現れるところ:③影

著者は鷹野さんが撮る影について、坂口安吾の小説『群衆の人』や東日本大震災、広島の原爆などを引き合いに出した上で、ついて次のように説明しています。

“影は、移ろう。影を追う者は、追う行為そのもののうちで影を取り逃がす。追うことを止めたときに、影は、すでに私たちにとり憑いている。影は、生ける幽鬼であり、亡霊の生そのものである。この影は、撮る行為が対象を物象化することの不可能性へ屈服したとき、はじめて私たちにその律動を垣間見せてくれる。”

これは、痕跡としての傷という意味に加えて、時間のうつろいにより変化し、常にまとわりつくという点で、避難都市である身体に蓄積した傷たちの宿命性を表しているようにも思えました。

そのほか写真が捉えるもの:関係性の喪失を残すということ

以上が本書で主張している鷹野さんの作品の持つ意味の主旨と理解したのですが、本書の冒頭で筆者が述べている(おそらく鷹野さんの作品以外も持つ)写真の役割として面白かった話があるので紹介します。

それが、写真により「関係性の喪失を残す」ということ。
これは、人と人が触れ合ったときに、お互い両者の核心的な部分に触れることができないことがわかることで、かえって距離を感じるという話にはじまるのですが、そうした人と人との関係性を写した写真というは、「そのときあった関係性」を写し出すとともに、その関係性が失われたときに「その関係性が無くなった」ということを表すということです。そして、その喪失が写真として残されることで、喪失したという事実が残される。逆に写真がない場合には、関係性があったことすら記憶として残らなければ消えてしまう、ということになります。

この話を聞いて思い出したのが、ふと昔の写真を遡ってみていたときに出てくる昔の彼女との写真。そこには確かに彼女とのその写真に写る思い出があったことがわかりますが、同時にそれが失われたこともわかります。そして、その写真を消すということは、その喪失自体をなくす行為と言えるでしょう。喪失が手元にあることはそれだけで傷であり、その傷を癒したいがために喪失をなくす(写真を消す)人は多いはずです。

ある写真をみたときに、そこにどんな関係性が見えるのか。そして、それは今の自分にとってどんな示唆があるのか。そんなことを考えるきっかけになる本でした。

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