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「東大生」というコンプレックス


東京大学を卒業して

卒業式と思い出深い「東京大学」

2024年3月22日、東京大学を卒業しました。

卒業式に参加すると、自分が思っていた以上に、自分には知り合いがたくさんいました。1年以上ぶりの再会を果たした友人もいました。写真フォルダには、たくさんの卒業式の思い出が残っています。

同時に、自分が思っていた以上に、自分にはキャンパスの思い出がたくさんあったことにも気が付きました。特に、4年間通った駒場キャンパスを一人で歩いていると、受験の日から最近のことまで様々に思い出されてきました。

そんな素敵な卒業式を過ごすと、「東京大学」は、私にとって素敵な思い出の母校であったように思えてきます。

「東大生」の学生証を見せたくなかった過去

しかし、私と「東京大学」との関係はそんなに単純ではなかったのです。

「東大生」は私の大きなコンプレックスでした。
思い返せば、カラオケで学割のために学生証を出す際には、「東京大学」という文字が見えないように指で隠していた時期も長くありました。
「大学どこですか?」と聞かれても、「東京の大学です」とか「渋谷の方です」とかで適当に逃げていた気がします。

そしてこれは、単なる謙遜ではなく、私と「東大生」との大きなずれに由来するものでした。

「東大生」というコンプレックス

東大生とはどんな存在か?

「東大生」とはどんな存在でしょうか。
本当の東大生がどんな存在かは、実はここではさして重要ではありません。
重要なのは、「東大生」として人々に想像されるのはどんな存在か、です。

まず多くの人にとって、「東大生」とは頭が良い人々でしょう。
日本で最も頭が良いとされる大学の学生である、というイメージは多くの人に共有されているように思えます。
あるいは、入学できたという側面を強調すれば、「厳しい受験競争を勝ち抜いてきた存在」でもあります。
そこから、受験競争を勝ち抜けるだけの「真面目で努力家な存在」というイメージを抱かれることもあります。
あるいは、「競争を好み、競争に打ち勝つ力をもった上昇志向の人間」だと感じている人もいるはずです。
さらには、「受験競争に勝ち抜けるだけの恵まれた環境で生まれ育った人間」という認識も広まりつつあるかもしれません。
こうした特徴の裏面で、「真面目でつまらない」とか「勉強ばかりで常識を知らない」とか「机上論ばかりで現場で手を動かせない」とか、そうしたややマイナスな特徴を想像される方もおそらくいるでしょう。
ときには、「常識が欠落した変人」という極端な表象がなされることもあります。

こうしてみると、もちろん「東大生」という語で表彰されるイメージもシンプルではありません。
いくつかのイメージが「東大生」のなかに織り交ぜられています。
他方で、そのイメージ群にはやはり一定程度共通したものがあるのも確かです。

私の過ごした学生時代

私は、4年前に一般受験で東京大学に合格をしました。
ですから、やはりそれなりに「頭のいい学生」ではあったように思います。
思えば、小学生のころからずっと、私は「頭のいい生徒・学生」でした。
しかし、学校というのは、「頭がいい」だけで気持ちよく過ごせる空間では決してありませんでした。
むしろ、周囲の友人からの見え方やその友人との関わり方といった人間関係を抜きには考えられない空間だったように思うのです。
そして残念なことに、「頭がいい」ことは、ときに「真面目」で「面白くない」と評価されることがある——と私は感じていたのでした。今になってみれば、その真偽は定かではありませんが。
しかし、そうした意識が私の内にあったことは確かです。

そしてそれゆえ、私はずっと「頭がいいだけの人」になるのが嫌でした。
だからなのか、結果的に私は、委員会活動やら部活動を頑張る学生として中高生時代を過ごしていました。
また、周囲の友人とふざける時間も大切だったし、いじられキャラでいられることに安心感さえ抱いていました。
「頭がいい」だけで「面白くない」と思われることが、私の根源にある恐怖だったように思います。

「東大生」と私の乖離

おそらく、私と「東大生」の一番最初の乖離はそこにあったのでしょう。
「東大生」を名乗ることで、「頭がいいだけの人間」と思われてしまうことが嫌だった。
この点では、「東大生コンプレックス」を「賢いキャラコンプレックス」と言い換えてみてもいいでしょう。

一方で、徐々に、私と「東大生」のあいだには多くの乖離が生まれるようになっていきました。
例えば、「エリート層で、社会の一部しか見えていない人間」と思われるのに抵抗感がありました。
あるいは、「恵まれて育ってきた人間」と見なされることも嫌でした。

もはや本当はそんな人間など実在しないのかもしれないと思うほど典型的なイメージですが、裕福な家庭で、教育に理解のある両親のもと、優れた学校や塾で勉強を重ねて東大に進学した、そしてそれが当たり前だと思っている、そんなイメージを私の人生に重ねられるのが嫌でした。
私の人生が恵まれていたかどうかなど、わかりません。何をもって恵まれているとするかの基準など決して単一ではないからです。
でも少なくとも、私の両親は大卒ではないし、出身は東京ではないし、高校時代は塾に通っていませんでした。学校もすべて公立です。
でも、中学受験も高校受験も経験しているし、小学校時代に塾に通える環境ではあったし、勉強をすることを妨げられたことはありませんでした。
恵まれてはいないと思う人もいるでしょうし、恵まれていると思う人もいるでしょう。

でもそういった私の人生背景を聞くことなく、「東大生」だから「恵まれて育ってきた」のだと解釈されてしまうことはやはり怖い。
私は、目の前の相手をみんな大切にしたい。学歴とか関係なく、ただ人のことを大切にしたい。それでも、「東大生」は「エリート」で上部の人しか見えていない、と思われてしまうのではないか、と怖い。

だから、私は自分が東大生であることを伝えたくない、隠せる限り隠そうとしてきたのです。
これが、私の東大生コンプレックスです。

コンプレックスを乗り越える

「東大生」の外へと出る

この東大生コンプレックスに、少なくとも大学2年生のころまではずっと縛られていたように記憶しています。
そこから解放されたのは、私が大学2年生のころから「東大生」を越え出ることが多くなってきたからかもしれません。

ここでは具体的に触れませんが、私は大学時代の4年間で東大以外の色々なコミュニティに属し、東大生以外の色々な知り合いと多く出会い、仲良くなり、東大からは及びつかない色々な現場へと足を運びました。
それまで出会ったことのなかったような人にも出会ってきたし、尊敬する人・かっこいいと感じる人にもたくさん出会いました。
ここは大切だ、と強く感じられる場所もたくさん見つけたし、素敵だなと感じられる町にも出会いました。

もちろん、そうやって「東大」を越え出ていくなかでは、かえって私自身に対し「東大生」としてのイメージが抱かれてしんどいこともありました。
「さすが、東大生だからすごいね」と褒められて、嫌な気持ちになったこともありました。
さらには、「あなただから言えるんだよ」という言葉から、「私には言えない、あなたの恵まれた特権性が言うことを可能にしている」という刃を感じ取ってしんどくなったこともありました。

「東大生だから言える」こと、「東大生」を変えること

でも、そうして「東大生」を越え出ていくなかで、徐々に自分の「東大生」とちょうどいい距離を見つけ、うまく付き合っていけるようになってきました。たぶん、大学3年生のころだと思います。

「さすが、東大生だからすごいね」とある友達が褒めてきたとき、別の友達が「東大生だからじゃなくて、もんどくんだからすごいんだ」と言ってくれた友達がいました。
自分が「東大生」であるとしても、一人の人間としてしっかり見てくれる人はいるのでした。

自分が東大生であることなど関係なく、仲良くしてくれる友達が、東京からほど遠くの田舎町にいます。私はその友達をリスペクトしています。その友達には、私には持っていないすごさがあるからです。その友達も、「東大生」など関係ない、私の私らしい面白さを感じ取ってくれているように思います。

さらには、私に出会って「東大生のイメージが変わった」「こんな東大生もいるんだ」と言ってくれる人もいました。
私が「東大生」を越えていくことで、「東大生」自体もそれまでの枠を越え出ていけるのかもしれない、と思いました。

私が主張することのいくつかは、「東大生だから言える」ことなのかもしれません。
つまり、いくつかの要素の揃った環境で生まれ育ち、周囲に学問について話せる友人がいたからこそ言えることがあるのかもしれません。私が頭がよかったからこそ言えてしまう、理想論があるのかもしれません。

しかしそれでも、いやむしろ、「東大生だから言える」のならば、「東大生だから言おう」と思うようになったのです。
「東大生だから言える」ということは、それ以外の人は今は言えないということです。
それでも、その主張が向かいたい社会の方向にあるのであれば、今口にすることのできる私が、たとえ理想論であっても言おうと思ったのです。
それは、「東大生」だからこそ持てる発言力や説得力を、ありたい方向へと使うということです。

そして、そのなかでいつしか「東大生」のもつ印象も変わっていったらいいなとも思います。
「東大生」にしばられるのではなく、私の方が「東大生」というイメージを引っ張っていけばいいのかもしれません。

大学院へと進むこれからの私へ

今月から、私は東大院生になりました。
きっと、「東大生だから言えるのだ」だけでなく、「大学院生だから言えるのだ」という批判にもさらされることになるのでしょう。
それでも、私がありたい在り方とありたい世界に向けて、ときに「東大生」やら「大学院生」やらのイメージも打ち砕きながら進んでいきたいと思います。
だから私は、堂々と「東大生」「院生」であることを名乗ります。
それに全く縛られることなく。私がそのとき大事だと思うことをしっかり大事にしながら。

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