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プロレス超人列伝第12回「ミスター・パーフェクト」

完璧、パーフェクト…この言葉は素晴らしい言葉だが安易に使うと大口をたたいているようにみえてしまう。

ここに男性を意味する「ミスター」をつけると「ミスターパーフェクト」になる。

普通の人間が使えば失笑気味の言葉であるが、この嘘みたいなリングネームを本当につけたレスラーがいた。

そのレスラーこそ今回の主人公であるカート・ヘニングことミスター・パーフェクトである。

カートはプロレスラーであった父親ラリーのもとで生まれ、父親の指導を受けながら順調にプロレスラーとしての階段をのぼりつつあった。

その後、父の主戦場であったAWAの門戸を叩き1980年にプロレスデビューを果たすこととなった。

父親ラリーとタッグを組み、タッグ戦線で活躍をしていたカートだったが一度は外の世界で自分を試してみたいと思ったか定かではないが1982年から1983年にかけてWWF(後のWWE)で主にジョバーとして活躍していた。

このころに初代タイガーマスクこと佐山聡と試合を行っていたこともあったといわれている。

その後、新日本プロレスに参加しMSGタッグ・リーグ戦でボビー・ダンカンを相棒にホーガン・猪木、アンドレ・ハンセンなどと試合を行っていたこともあった。

新日本を経て、古巣のAWAに戻ってきた彼はそこでベビーフェイス側の主力選手として大いに活躍をしていた。

当時、AWAはWWFに主力選手であったホーガンを引き抜かれたことでレスラーが不足していたことも理由の一つであった。

しかし、それ以上に彼は類まれな運動神経・技量・才能を持っていたのも理由の一つでもあった。

アメリカのプロレスはファミリービジネス、悪く言えばコネ社会であるがコネだけがあっても上に上り詰めることはほとんどない。

カートには確かな才能があったのだ。

カートは使う技は少なめに、基本的には打撃と関節技主体で試合を構築するというプロレス界屈指の試合巧者であった。

彼の持ち技であるパーフェクトプレックスはここ一番以外では発揮しないが、逆にそれが彼の特別な才能を際立たせていた。

AWAと全日本プロレスを交互していた彼は着々とその技量・名声を高めていくが…彼が活躍していたAWAもWWFとの生存競争で敗北したことでWWFに引き抜かれることになってしまった。

しかし、豆腐のように似ても焼いても食えるレスラーであったカートはここで「ミスター・パーフェクト」というリングネームを獲得することとなった。


(以降はパーフェクト表記に変えます。)

このパーフェクトという名前はだでではなくプロモーションビデオの一環として野球・テニス・ゴルフなど様々なスポーツに挑戦したが、そのすべてを制覇してしまったのだ。

野球の撮影をすれば場外ホームランを放ち、テニスをすればしゃべりながら打ち返し、ゴルフではホールインワンを繰り出した。

はたまたボーリングではストライクを決め、撮影スタッフは度肝を抜かれてしまったといわれている。

彼は本当の意味でなんでもできる「パーフェクト」な存在であったのだ。

もちろん、WWFにいっても変わらない彼は試合の方でも大活躍を収めた。


当時WWF世界ヘビー級王座にならぶタイトルであったインターコンチネンタル王座を獲得したへニングはこの王座の主戦力選手として多い観客を沸かせた。

主にブレット・ハートのライバルとして君臨していたが、ブレットに負けない試合巧者っぷりをみせていた。

さらにはドインク・ザ・クラウンという怪奇レスラー相手にも名勝負を披露、AWA時代と変わらない名声と実力を周囲に示していったのだ。

しかし、この合間にケガをしてしまった彼は一度レスラー人生を引退することも考えるほど追い詰められることがあった。

やがて、そのけがは年々深刻化していき1994年にはレスラーから解説員として路線を変更していった。

だが、それでも彼の中ではレスラーとして活躍したいという欲望があったのだろう。

1997年にはWCWに所属団体を変更した。

多くのレスラーがWWFからWCWにいってはうだつの上がらないことになってしまったという悲劇が多かったが、彼はその例にもれることはなくnwoやフォーホースメンなどで活躍していった。

対戦した選手の中には現在AEWで主力として活躍する若手時代のクリス・ジェリコもいた。

WCWに所属していた時代は新日本やプエルトリコのWWCなどにも出演してはその才能を発揮して決して枯れてはいない個性をアピールしていた。

その後、WCW崩壊まで団体に所属し続けていたパーフェクトはWWFに戻ってきてあのブロック・レスナーを指導して選手だけではなくコーチとしてもその才能を発揮することに成功していた。

ちなみに彼はそれ以外にもあのドン・フライなどのコーチを過去に勤めていたことがあったそうである。

ドン・フライとブロック・レスナー、MMAの世界で活躍した両者はなんとパーフェクトの弟子でもあったのだ。

このように順風満帆にみえた彼の人生であるが、2007年フロリダのホテルで突如この世を去ってしまうのであった。

原因はコカインの中毒によるものであった。

44歳という若すぎる死であった。

ミスター・パーフェクトという名前にふさわしい彼であったがその最期は非常にあっけなく悲しいものがあった。

彼の死後、息子であったジョー・へニングがカーティス・アクセルという名前でWWEデビューを果たしたが、父親以上の活躍をすることはできなかった。

もしも彼が50まで生きていればそのコーチとしての腕を存分にいかしてさらなるモンスターを産んでいたことだろう。

非常に惜しい事である。






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