【本日のオススメ】「日本人は『許すこと』を学んだほうがいい」哲学者マルクス・ガブリエルの考える日本人の問題点…という記事。

こちら。


「日本人は『許すこと』を学んだほうがいい」哲学者マルクス・ガブリエルの考える日本人の問題点

ちょうど最近、ニューヨークから有名な先生が客員教授として訪れていました。とても興味深い人物がドイツに来ていたわけです。そこで彼をパーティーに招待しました。ドイツ人の常識ではパーティーに出席しないなどありえない。ところが彼はアメリカ人の常識で、今夜は行けませんとあっさり断りました。ドイツでは大変失礼なことです。でも私はアメリカ人を知っています。

私としてはメンタル空手のドイツ人バージョン、そうですね、ピストルを抜くこともできたわけです。ふだんであれば相手のふるまいに対して社会的に相手を撃っていたでしょう。一種の社会的な処刑です。でも私は引き下がってノーを受け入れました。彼はパーティーに来たくないのだな、それでかまわないと。

日本人はノーを許さない
日本ではもっとやっかいだったでしょう。このような場合、日本ではみんなが戦いを仕掛けてくるのです。私がパーティーに行きたくないと言ったとします。「そうですか、わかりました」。その後で、日本人の友人から今夜パーティーがあると電話がかかってきます。「あれ? もうお伝えしたけれど、私は出席しません」「そうでしたね、忘れていました」。

でも、今度は別の人からパーティーの件で電話がかかってくる。「もう○○さんにお伝えしたけれど、私は欠席します」「そうでしたか、失礼しました」。そうしたら今度はドアをノックしてくるのです。「パーティーにいらっしゃいますか?」と。日本ではこうなる。結局パーティーに行くことになります。最終的にこちらが降参する。死ぬまで戦うと先ほど言ったのはこういう意味です。

このような同調圧力に代わって、相手が行きたがっていないことを素直に受け入れる和平条約があってもいいのではないかと思います。これは日本ではとても難しいのでしょうね。ドイツのほうがもう少し楽ですが、それでも同調圧力に関して日本とドイツは似ています。ただドイツのほうが和平条約が成立する余地があります。とはいえ、いろんな言い訳をしなければなりません。社会的シチュエーションから抜け出すのは大変です。


同調圧力に逆らうと、袋叩きに合う、あるいはコミュニティから追い出される、村八分になる、みたいなのは、ホント、ゲロ吐きそうになるね。

日本人の日本人らしさ。

ゲロ吐きそうになる。


結局、同調圧力に屈して、皆の顔色をうかがって生きるのが正解なのか?っていうと、どうも自分はそうとも思えなくて。

ささやかな抵抗として、「誰とも関わらない」という選択肢を選んだわけですが。これぞ、同調圧力を極限までかわしつつ、できるだけ自分の意思を尊重できる方法。


日本人は、許さない。

当然、私のような人間など、許されるはずもない。

だから、日本人よ、許せ。

俺のような生き方も許せ。

お前ら、気持ち悪いぞ。(俺も人のことは言えないか)

他者とは、相手が自分と同じでなくても許すことをあなたが常に学ばなければならない、そんな存在です。それでいいのです。私たちが他者に「こうであってほしい」と望むのはまったくかまわないと私は考えています。それが私たち人間ですから。私たちは自分のしていることがいいと思っている、だから当然、他の人にも自分たちのようであってほしいと望みます。しかし加えて、他者が自分たちのようではないことを知って、それを許すレイヤー(層)が必要なのです。

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