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ベトナム独立を支援した筑前玄洋社の頭山満(とうやま みつる)翁

 前の記事「ベトナム独立を支援した福岡の人々 ~玄洋(げんよう)社・黒龍(こくりゅう)会では、ベトナムの皇子クオン・デ候の支援団体と、主幹内田良平(うちだ りょうへい)氏を取り挙げました。
 続けて、玄洋社と云えばやはり、中心に居た頭山満(とうやま みつる)翁です。。。
 
 「自分も頭山、犬養両翁から頼まれて、(クオン・デの)面倒を見た、支那事変がはじまってから、安南で国民運動にたずさわっていた各党派が団結してはどうかという話が出て来た、そこで上海で大同団結した越南復国同盟会が結成された。」
       『朝日新聞』1945年7月30日付」

 南京事件の松井石根(予備役)大将は、1945年7月の朝日新聞紙上でこの様に語りました。

 しかし、5.15事件で銃殺された犬養毅元首相のことは、クオン・デ候自身が自伝『クオン・デ 革命の生涯』の第15章「痛哭の出来事」で詳細を語っていますが、異に『両翁』のもう片方である頭山満翁とベトナム独立志士との関係は、一般公開されている情報の中には殆ど遺されていません。

 けれど、世の物事は全てコインの裏表の様に両面性があるように、私はこれを『表看板』犬養翁派と、『裏看板』頭山満翁派『両看板=両輪』によるベトナム独立支援だった筈だと推測してます。。。
 そう仮定すれば、『裏看板情報』は隠され、又、その目的で意図的に『表看板情報』は流されている筈なので、戦前の古書を捲っても頭山満翁派によるベトナム独立支援の詳細情報が簡単に発掘出来ない理由なのかも知れません。

 さて、頭山翁の幅広かった交友関係の中で、頭山翁の孫である頭山統一氏が御著書『筑前玄洋社』の中でこう綴っています。

 「交友のあった多くの政党人の中でも頭山が人間的にもっとも深く親しみ、対アジア問題などについて行動を共にしたことの多いのは犬養毅である。頭山は、犬養にたいしてその没後にも多くの好意と親愛の回想談を述べて追悼している。」
           頭山統一著『筑前玄洋社』より

 犬養翁と頭山翁は、「対アジア問題」などについて最も深く親しみ行動を共にしたということですが、その割に「けれども頭山が犬養の「政党政権論」そのものを評価し同感した談話はみられない。」とも書いてます。

 ここから読み取ると、二人とも元々異なった社会的立場、背景、組織がある中、個人的主義や思想が完全に一致する訳が無い環境に於いて、然し乍らこの「対アジア問題」に関しては、二人は最も深く行動を共にしたということでしょう。だからベトナム支援に関しては、後に『大亜細亜協会』会頭になる松井石根大将が適任だ、と2人で判断し松井大将に頼んで、そして後にベトナム独立支援の如月(きさらぎ)会が誕生したのか。。。と、どうもそんな経緯だと仮定すると話が実にすっきりするのですが。
 あくまで私の憶測です。😌😌

 ネットなどで『頭山満(とうやま みつる)』を調べると、一様に先ず冠されている代名詞が『右翼の巨頭』です。
 要するに、『この人こそ右翼!』という人物だという意味でしょうが、実は先の記事に書いたように、昭和40年代生まれの私の右翼団体の想い出は、『スピーカー付きのカーキ色宣伝カー』のみでした。。。😅😅

 東京出身の母の実家へ、年に何回か両親に連れられて上京すると、毎度必ず何事か大音量で喚き立て市民の憩いと団欒をぶち壊す宣伝カーが駅前に停ってました。「お父さん、あれ何?」と父に聞くと、苦虫を嚙み潰した様な顔で「右翼。」とだけ返事があり、多分敗戦時に小学校入学前だった父も「右翼」に関して能くは知らなかったかと想像しますが、でもそれ以来私の右翼イメージは、「市民の敵・スピーカー付き宣伝カー」になってしまいました。。(笑)

 だから、後年になってベトナム革命史を調べる中で、あの頃のクオン・デ候とベトナム独立を支援したのは日本の『右翼主義者』とか『右翼団体』だった...、との記述には非常に混乱させられました。
 何故かと言うと、戦前は全く『表』に居ない彼等(=如月会)が右翼だとすれば、戦後何故に好んで『駅前』に参集していたのか。敗戦を堺に『裏=後』⇒『表=前』に豹変した理由が判らなかったのです。(←ワタシ、変でしょうか。。。😅😅)

 それで、私が思ったことは、あれも右翼、そしてこれも(多分)右翼😂。でも、右翼とは言っても十人十色で、皆中身は全然違うのだろうということ。
 そこで、その他大勢の右翼とは一線を画して、犬養毅翁と共にベトナム独立を支援してくれた右翼の巨頭・頭山満翁の『右翼』とは、実際具体的にどんなのか?? ⇒これを私なりに何となく理解できた記述がありまして、ご紹介したいと思います。
 以前の記事ベトナム抗仏志士と近衛秀麿(このえ ひでまろ)(8/12 追記)』の『風雪夜話』からです。⇩

『 亡父(霞山と号した)は日露開戦の年(1904年)の元旦に41歳で病死するまで、貴族院(今の参議院)の議長をつとめていた…(中略)内政面では教育事業のほか、北海道拓殖にも挺身していたが、ある時、視察旅行中に落馬したさいの負傷がもとで類例のきわめて稀なアクティノミコーゼ菌に体内を犯され――後の浜口首相と同病――筋肉内深く骨膜に達する化膿で、十数回にわたる全身の手術の結果、心臓を弱めてついに死亡した。』

 実は、御父上の近衛篤麿(霞山)公は、「極秘国策を自分の口から漏らしては申し訳ない」という理由で手術で麻酔剤の使用を拒否したそうなんですね。毎回の手術には、当時の横綱2人が体躯を押さえつけての執刀だったそうで、これではいくら健康体でも心臓がもつ訳ない。😨

 『ところで、誰も平常健康そのもののような彼が40歳そこそこで若死にするなどと考えたものはいない。ただひとえに遠くない将来の総理としての彼に、ただ有利な先物を買ったつもりで言うがままに「投資」したものに違いない。それに対して彼はまた一々丁寧に自筆の借用書を兼ねた感謝状など渡している。そしてこれが後日ものを言うことになるとは誰が知ろう。父の生前政治上の盟友であったはずの貸し主たちはその死と共にたちまち債鬼と化したのであった。
 この公卿の家にそんな莫大な遺産があろうとなかろうと、応仁の乱に京の町で焼け残った蔵に千年来家に保存されてきた国宝級の書画その他があることを知る人は知っていた。しかしこんな均衡はまだ若くて後家になったわが母一人の手などにおえたものではあるまい。

 ところが、ここに現れたのが亡父の対外問題の同志たちで、その友情の厚さに母なども感泣したに違いない。幼い記憶に残ったのは何といってもまず「頭山(満)さん」であった。 
 そうとはきづかず乗り込んで来る負債の請求者たちに対して全く胸のすくような応対をされたものだ。

 「貴殿たちの御出資は、大変国家のために役に立ちました。私からも故人にかわって御礼申します」

 そして幾枚もの借用書が母の手にもどってきた。』
           
 近衛秀麿著『風雪夜話』より

 霞山公の死後に債鬼に豹変したという盟友の皆さまも、きっと自称『右翼』だったに間違いなく。(笑)
 社会的に大きな変化があった時、狼狽せず、利己に走らず、常に弱者を守った『右翼の巨頭』頭山満翁。だから困窮に喘ぎ、常に孤立無援だったクオン・デ候とベトナム革命志士らを支援してくれたのかと、大亜細亜主義などの大義名分より何より、この方が妙に納得できます。

 そういえば、『風雪夜話』には石原莞爾(いしわら かんじ)中将との想い出も登場します。「東北線駅弁事件」と題した章の、東北から陳情に上京した弁当売りたちを貴族院議員だった秀麿氏が応対した時の話です。

 『ある時、貴族院に東北から駅の弁当売りの陳情団が毎日の様に通って来ているのに、議員が誰も忙しがって取り合おうとしない。そこで僕が自分から進んでその応対を引き受けた。(中略)…その結果判明した陳情の内容は誰が聞いてもひどい話であった。
 此の見るからに朴訥な人たちの話によれば、仙台鉄道局から抜き打ち的に申し渡しを受けて、
 「向後弁当その他のいっさいの駅売りは鉄道弘済会が引きつぐことになったから、2年以内に祖父伝来の商売を引き渡して転業するように」というのだそうだ。』

 「一方的で横暴もはなはだしい」と、秀麿氏は即現地に同行することにしました。しかし、仙台入りして局長との談判は決裂、どうしたものかと考えていると、弁当屋さんたちから、
 「…あとはイスハラ(石原)連隊長くらいなもんですね」と名前が出たので、それは頼りになりそう、と早速石原氏の私邸を訪ねたそうです。

 『…僕は「仙台に来て孤軍奮闘している。出来れば貴下に参謀になって頂きたいのだ」と前置きして、駅弁の件をかいつまんで話をすると、
 「うん。けしからん話だな。そんな役人のわがままは通さしてはいけない」と短かく一言云ったきりであった。味方になってくれるに違いないと思えた。

 翌日夕刻時間を見はからって局長の室に入ると、局長の態度は前日までとはがらりと変わっていたのでこちらが面をくらったほどであった。駅弁組一同大喜びで、多分(石原)連隊長から一喝食ったためだろうと言い合った。』
        
 『風雪夜話』より

 1940年の仏印武力処理、当時日本のベトナムなどへの南進政策には反対の立場を表明していたという石原莞爾中将ですが、私利私欲無く常に弱者の立場に立つ人間味は、ベトナム支援の頭山翁や如月会、桜会の面々と同じ雰囲気を醸してます。

 ところで、実は私はベトナムに渡って数年経った1996-7年の頃、ベトナム爺さん達から「Ông TO-YAMA(オン・トーヤマ=頭山翁)」の名前を聞いたことがあるのです。   
 本当にお恥ずかしい限りで、バブル時代に中高生・勉強嫌いでまだチャラい若い女史でした私は😭😅、学校の日本史で習わない様な人物など全く知る由もなく、ポケーっとして作り笑いする私にベトナム爺さん達はただどことなく寂しい笑顔を向けました。
 それでも、私は東京下町出身の母譲りなのか、勤め先を変えた後でもお世話になったベトナム爺さんにこまめに顔を見せに寄ったり、電話で呼び出しがあればすぐに飛んでいき相談も聞き、少額で解決できる時には快く出費しました。当時のベトナムで日本企業勤務で懐に余裕があったので。
 そんな時、ベトナム爺さん達に必ず呆れたような、でも喜び溢れる様子でいつもこう言われた記憶があります。それは、
 
 「お前は、今の日本人らしくないじゃないか。それじゃあ、昔の日本人だ。昔の日本人。」

 その当時はあまり深く考えていませんでしたが、今頃になって漸くこの意味が解るようになりました。
 それで、これはよく考えると空恐ろしくないでしょうか、将来私の娘も生きて行く『これからの世界の中の日本』を考えると。
 もう今より20年以上前からベトナム人に、 

 「戦後の日本人は、義理人情に欠け、大義名分を振りかざす割に社会変化によって金金で如何様にも豹変するよ」

 
と看破されてた、、、ってことですよねぇぇぇ。?😵‍💫😵‍💫😵‍💫

 
 

 

 

 
 
 
 

 

 


 


  

 

 
  

 

 

 


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