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日本敗戦-『ベトナム現地に残った日本人残留兵たち』-様々な人間模様②

 日本敗戦-『ベトナム現地に残った日本人残留兵たち』-様々な人間模様①からの続きです。

さて、南洋学院卒業生の方の手記を読むと、末端の日本兵達の間では噂レベルの誤情報が錯綜していた様子も判り、大変貴重だと思います。
 ここから判明する1945年8月後半以降のベトナムの様子を纏めると、大体こんな感じ。⇩

 1,越南国民党や大越党、その他の集団が、ホーチミン率いる越盟(べト・ミン)軍と対立し、両者は武器を手に戦闘を行っていた。

 2,現地日本軍から多数の離隊者があり、それぞれ目的や、恋仲のベトナム女性が居た。

 3,越盟軍、これと対峙する大越党、国民党いずれもが軍事知識のある残留日本兵を競って勧誘していた。

 4,ベト・ミン軍内でもフランス軍内でも、日本兵は優秀で、特進昇級で教官などになりベトナム兵への一般教養や軍事教育を一から行った。

 5,敗戦のドサクサに、現地に在った御用商人などが越盟軍などへ日本軍の武器の横流しをした。ついでに、残留兵も斡旋紹介していた。

 6,昭和29年にフランス軍も越盟(べト・ミン)軍も、それまで大いに役に立った残留日本兵たちを”一斉放出”するかの如く日本へ帰国させた。(時期が符合)

 7、昭和29年(1954)春の残留日本兵帰国説明会は、既にベトナム妻に子供もあり、財産があった日本兵も商売人も含む、残留日本兵全員を帰国対象にした。

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 上記の1は、当然でしょう。。。😑
 先の記事ホー・チ・ミン氏とは、結局一体誰?①に書いた様に、日本軍の肝いりで広西省にて結成された『ベトナム革命同盟会』グエン・アイ・クオック=ホー・チ・ミン氏も加わった(筈)だったのに、仲間を差し置いて、9月2日の『再・独立宣言』でいきなり、
 「私たちは、私たち民族は、フランスの手からではなく日本の手からベトナム国を取り戻したのです!」
 と叫んだのだから。。(笑)😂😂
 
 さて、ここで、
 残留ベトナム日本兵と云えば、『クアンガイ陸軍士官学校』の存在に触れなければなりません…。
 この学校の教官を務めたお一人の加茂徳治氏著『クアンガイ陸軍士官学校』という本が存在するのですが、生憎今手元に無く💦💦。
 仏印駐留時、加茂氏は第二師団歩兵第29連隊(=会津・若松連隊)の第九中隊第二小隊の小隊長で、階級少尉。敗戦時は中南部ファンティエット(Phan Thiết)に居ました。
 この『クアンガイ陸軍士官学校』に関しては、また別途記事にしたいですが、幸い、これについて詳しく書かれた方のnote記事がありましたので、ここから関連個所を要約、引用させて頂きます。⇩ 
 
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 『明号(マ号)作戦』後の昭和20年(1945)3月ベトナムに上陸した独立混成第34旅団は中部フエに拠点を置く。参謀は井川省少佐。
 井川少佐はベトミンとの連携強化を図り,中部ベトミン指導者らと相互不可侵協定を結ぶなど活動したが、翌年4月上旬にフランス軍の攻撃で戦死。
 遺志を継いだ部下の中原光信少尉が,べト・ミン幹部のグエン・ソン(阮山、Nguyễn Sơn)に士官学校設立を進言、『クアンガイ陸軍中学』の設立立案がされるが、1945年10月に既に離隊しべト・ミンに参加していた元若松連隊所属の猪狩和正中尉,加茂徳治中尉及びその部下数名がこの学校の教官・副教官として勧誘を受け参画することになった。
 昭和21年(1946)6月,クアンガイ陸軍中学(Trường Lục quân trung học Quảng Ngãi)開校。

 同校は、第1~4大隊に其々教官と副教官がおり、各100名、合計400名のベトナム人を教育した。当然教官と副教官及び医務官は全て日本人で構成され,しかも過半数は福島県出身者で占められていた。
 昭和29年(1954)5月ディエン・ビエン・フーが陥落。
 加茂氏ら合計74名の旧日本軍人は日本へ帰国することになり北部タイグエン省 (Thái Nguyên)に集合,11月出発。陸路で中国入り、列車で天津へ移動して、引揚船『興安丸』で同月30日に舞鶴港へ入港した。
 当時は、べト・ミンの対仏戦線に旧日本軍人がいる不都合な事実を伏せる為、帰国時に『ベトナム人家族の帯同』は認められなかった。

戦後なき”若松連隊”|佐川明生@法律家 (note.com)

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 さてここで、改めて上記6,7に戻って考えて見ます。

 お気付きの通り、クアンガイ陸軍士官学校教官の加茂氏らは北部に集合、帰国説明を受けベトナムを出発したのは11月。その①で、駒屋氏が証言した「昭和29年の秋」と時期が一致してます。また、再度集合したのは其々74名と70名だとの証言で、人数もほぼ一致。陸路で中国国境を越え天津入り、船便で舞鶴港着という帰国経路も完全に一致です。
 此の事から印象を受けるのは、昭和29年(1954)ディエンビエンフー陥落を契機に、残留日本兵は突然一気に纏めて帰国させられた事実が明らかになると思います。
 この帰国に際し「ベトナム人妻子の帯同は不可」とべト・ミン側から通達が出てた。その理由は、1945年から1954年まで、ベトナム人へ軍事教育を施したのが旧日本軍人だという事実を隠すためという。😑😑🤐🤐

 また、別の角度から掘り下げると、、、
 元独立混成第34旅団所属でクアンガイ陸軍士官学校教官になった谷本喜久男少尉は陸軍中野学校出身で、ベト・ミンの軍事顧問でもあったそうなので…、これはもう、井川少佐以下数名は元々「或る特別な任務」を帯びてフエ入りしたのかなと推察します。。

 そう仮定して、私の上記5に戻って考察して見ます。
 井川少佐は、べト・ミン側の武器弾薬確保を間接的に支援していた事実があります。また、その①で、日本軍兵站御用商人や下村洋行ハノイ支店員が残留日本兵の居場所を把握し、元南洋学院生に通訳を頼んでべト・ミンなどへ斡旋していた事実もあり。
 そうならば、元々山砲部隊所属だった駒屋氏の元へ、ベトナム民兵が『日本軍の歩兵砲』の使用方法を教えてくれと持って来たのは”偶然”なのか?? クアンガイ陸軍士官学校設立前、その教官になり得る優秀な人材が、丁度中南部に居た会津若松部隊から複数名離隊してたのは”偶然”なのか??。。。
 。。。否、絶対偶然ではない筈。😑😑
 私がベトナムに移り住んだ30年前でも、まだある日偶然出会ったような人に、”そういえば、貴方あの日何処其処へ行ってこんなことしてましたね。”と言われて背筋が寒くなった経験が何度もあるのです。
 仏領インドシナ時代に『蟻をも通さない密偵網』を構築し、隣組様の村制度で密告を奨励して厳重に管理してたのは仏印政府ですが、実際の実行者はベトナム人官僚・幹部なのだから、フランス人が居なくなったところでこの仕組みと組織網、ノウハウは丸々彼等の手元に有る。
 その前提で考えれば、離隊した残留日本兵の行方、元所属部隊、出身地、得意教科、得意語学、性格、嗜好、家族構成…等々は全て、ベトナム密偵網により筒抜けだったと考える方が合理性が高いです。
 情報とは、理解出来る人が握って初めて有効活用できる性質のもの。ならば、ベトナム密偵網を使って”誰が”情報を集めさせていたのか? 集まって来る人材と遺棄兵器の情報を分析し、”誰が”采配し、”誰が”指図をしていたのか?。。。と、こう整理していくと、どう考えても『元々べト・ミン最高幹部は(極秘の)日本軍人』という結論に至ると思うのですが、如何でしょうか??😅😅😅
 
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 ところで、、、
 ここで今一度、確認したいことがあります。
 それは、軍隊での辛い日々が終わり、やっと懐かしい故郷へ帰れるのに、帰還を諦め隊を離脱してまでベトナムに残留=戦闘継続へ身を投じようと決めた人が斯くも大勢に及んだのか。。。
 人それぞれ個人的理由も、”被圧迫民族の独立解放に身を捧げ…”の大義も勿論でしょうが、この頃の残留日本兵が置かれた環境を的確に表現してると思える記述が、亀山氏の著書『南洋学院』の解放戦線へ誘われる』の件、「北部訛り」グループから勧誘された時の自問自答に垣間見えます。⇩

 「…その夜から、下士官室の裏の籐椅子で、昼は事務室の机の前で、真剣に考えた。私たちは戦いに敗れている。捕虜としての運命が待っている。ビルマ、マレーに連行されて5年、10年間の強制労役という噂もある。学院で見たことのあるイギリス兵のボロ靴、皮膚病の上半身、粗末な昼食、それらが私たちの姿に二重写しになった。今、彼らに従った方が楽なように思えた。しかも崇高な東洋民族の独立の旗のもとで…(前述の駒屋、2期生の安達の選んだ途である)」
            『南洋学院』より

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 上⇧の「2期生の安達の選んだ途」安達氏とは、亀山氏によれば「終戦の際、日本に帰る道をとらずにカオ・ダイ教に身を投じた」そうです。
 ここで、再びその①の、在ベトナム日本兵4種に戻りますが、
 ①越盟(ベト・ミン)軍(=北ベトナム軍)に参加
 ②在ベトナム・フランス軍に参加
 ③中南部の解放戦線に参加
 ④フランス国軍の外国人(傭兵)部隊に参加

 「2期生の安達」氏は、上記③に当たると思います。要するに、亀山氏が「現在も生死不明の片岡弘、安達滋…」と名を挙げたように、解放戦線のカオ・ダイ部隊に身を投じた。ならば確実に戦死したと断言できると思います。
 
 最後に、ここの⇧背景を考察して今回の記事を終わりたいと思います。

 ここまでで明確なのは、
 昭和29年(1954)5月、360度丸見えの台地へフランス軍外人傭兵部隊をヘリで置き去り、ディエンビエンフー陥落でフランス撤退。(多分計画的な撤退の為の口実)。🤐🤐 
 同時進行で早くも日本人残留兵全員に北部召集が掛けられ『帰国説明会』。べト・ミンから出された条件は家族の帯同不可。
 昭和29(1954)年11月一斉帰国。別れに涙を流すベトナム人妻子の姿有り。舞鶴港入港、しかし日本政府・メディアは当時殆ど大きな報道せず。

 ベトナムに残留日本兵が消え、この直後にどうなったかと云えば、、、
 ⇒第一次インドシナ戦争(=ベトナム戦争)が勃発

 けれど、もうべト・ミン側に日本軍人は居らず、戦況詳細情報は伝聞に頼るしかなくなりました。
 そこで、ここからの戦況を知るに第8代アメリカ国防長官ロバート・マクナマラ氏の『マクナマラ回想録』(1997)がありまして、こんなことが書いてあります。。。(要約)⇩

 …ベト・コン(越共)は、私たちの軍事作戦の詳細をいつも事前に知って居た。ホーチミン・ルート攻撃で急襲を掛けると、不思議な事にいつもいる筈のベトナム兵が全く居ない、静寂の風景が広がっている。反対に、アメリカ軍の攻撃作戦は、何故かいつも彼等に漏れていた。常にアメリカ兵は戦闘に出掛けて夥しい犠牲者を出した。
 有効な軍事作戦はいつも上部に却下され、反対に不合理、且つ不可思議な作戦は強行されて、毎回沢山のアメリカ兵が無駄死にした。…

 フランス軍外人傭兵部隊に居た柘植さんという方の回想録には、「不思議なことだが、前線のべト・コン兵士は常にOSS(アメリカ情報局)から配給された最新の武器を身に着けていた。このことは戦場の兵士なら誰もが知って居た。」という旨の記述があり、これはマクナマラ元国防長官も同様の事を書いてたように思います。(後日原文アップ・デートします。。😅)

 ベトナム側は、、、
 ベトナム戦争=反米戦争の枠組みで共闘した北ベトナムと南部解放戦線。解放戦線の中のカオ・ダイ部隊は、1961年頃から68年に掛けてのアメリカによる軍事作戦で主力部隊はほぼ壊滅した、と多くの文献に散見できるので、要するに当時在アメリカ軍のベトナムに対する軍事作戦は細かく分けて、
 1,軍事作戦遂行⇒ベト・コンの姿なく、失敗
 2、軍事作戦遂行⇒カオ・ダイ部隊など解放戦線を殲滅、成功
 3,不毛の作戦強行で大量のアメリカ兵が毎回無駄死
 4,軍事行動がいつも事前に漏れ神出鬼没のべト・コンが先回り。(←これが映画『プレデター』のモデル。。😅)

 ⇧こんな風に整理してみましたが、あくまで個人の推察です。。。😑😑

 1945年8月以降にカオ・ダイ部隊へ身を投じたのが本当なら、安達氏は絶対に生き残れてないと思います。

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 最後に私の希望を言いますと。。。
 上皇、上皇后(当時は天皇、皇后)両陛下だけでなく、今年またしても秋篠宮ご夫妻が日本人残留兵のベトナム御家族にご面会。日本国家の象徴が海外ご公務する際の内容選定にあたり、この残留兵の発生背景、歴史(残留兵がべト・ミンを育てたんダロっ🤐)、経過(ほっぽり出したんダロっ🤐)、日本のスタンス(家族帯同禁止したのはそっちダロっ🤐)などなど、、、
 これらをきちんとNHKなどで大々的に報道してくれたら、マイナー街道のベトナム史が一躍メジャーへ踊り出るチャンスなのにぃ。。。
 日本外務省は相も変わらずの密室体質なので、いつもがっかり。(笑)😂😂😂😂😂

 
 


 
 
 



 
  


 
 
 
 
 
 

   

 
 

 


 

 
 


 
 

 
 

 

 

 
 


  

 

 

 


 

 
 
 
 
 


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