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本の登場人物・時代背景に関する補足説明(19)終

『潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)著「海外血書」(1906)』
  → 「1908年黎大(レ・ダイ)によって、ヴェトナム語詩に翻訳され、トンキン義塾の秘密印刷所で原文(漢語)・字喃・国語で印刷されて愛読された。これを藩伯玉が書写したものが、日本の東京でも1909年頃に秘密刊行された。」                        
                                                    『ヴェトナム亡国史 他 解説』

『陳忠立(チャン・チュン・ラップ)』       
     →「その風貌は長年の戦場と獄中で鍛えられた筋骨の逞しさと眼光の鋭さ、見るからに闘志溢れて迫力を覚える、一種の異相で、当時のヴェトナムにあって、確かに剛直かつ純粋な革命家であった。」
                   『安南王国の夢』

「日本軍と共にドンダン・ランソン進攻した『ベトナム建国軍』」                   
  → 石川達三氏の『包囲された日本』には、「安南革命軍と称する貧弱な装備の軍隊との記述があります。それが、ベトナム復国同盟会の『ベトナム建国軍』のことかと思いますが、この時のベトナム軍の事は現地の日本軍には全く周知されていなかったようです。
  → 「彼等の多くが予めフランス軍守備隊に密かに潜入し、フランス兵営内のベトナム人兵士や山岳民族の兵士たちに対して帰順工作を行っていた。」                 『安南王国の夢』

『第五師団』                 
  → 1873年(明治6年)設置された広島鎮台を母体に、1888年(明治22年)に編成される。日清戦争から続き、中国での戦闘経験と戦歴から、帝国陸軍の精鋭部隊の一つとされていたそうです。1940年仏印進駐の主力部隊です。その後も、マレー作戦、シンガポール攻略、フィリピン作戦に転戦し、常に主力を努めた部隊。仏印進駐時の師団長は、中村明人中将でした。

『とり残された市民らへ報復に略奪暴行を働きに来る恐れが高い』                    →「復国同盟軍の兵士たちは「復国同盟軍」と書いた腕章を腕に巻き、日本軍の占領地帯の混乱防止と秩序の維持に当り、戦場となって興廃した都市の復旧に努めた。」            『安南王国の夢』

『カオダイ教に、大弾圧が加えられる』
  → 「1940年12月初め、カオダイ教徒の武装蜂起が起き、これに対するドク―の弾圧は、熾烈を極める。飛行機や大砲まで動員して、カオダイ教の殲滅を図り、六千人以上が殺害され、1942年法王のファム・コン・タック他有力者が、モザンビーク海峡のコモロ諸島に追放されたという。」
                   『ベトナム1945』
  → 「12月10日政府は、軍隊を動かしてタイニンの本山を攻め、空軍を出して土着民を爆撃し、死者数千といい、暴徒とその一味と称する物4千名を逮捕し、首謀者と思われる者は南方のプーロ・コンドル島(コンダオ島)に島流しした。コンドル島は以前から仏印の囚人島である。この事件以来行方不明になった者2千名と言われているが、その中の一部は米を運ぶ団平船に乗せて沖へ流し、油をかけて焼き沈めたのだという噂も飛んでいた。」  
                   『包囲された日本』

『反仏印政府側の陰謀か』
  → 「11月22日夜から翌朝にかけて、武装蜂起した暴徒はサイゴン市の付近に迫り、仏印軍の屯所を襲った。(仏印)政府はこれを「極左分子の扇動による突発事件なり」と称して、小事件として扱う態度であった。しかし、騒乱は次第にひろまり、25日にはショロン市外のフランス人農園を襲い、その他にも頻々と事件が起こった。29日から12月3日にかけて仏人の市民や警官が拉致され郵便局が放火された。」        
                  『包囲された日本』  

 → 「フランス領印度支那連邦の経済上の中心は西貢及び堤岸(チョロン)であり、この地方に根を張る華僑が其の実権を握っている有様である。これが西貢(サイゴン)地方において、最近まで執拗な抗日運動が続けられ、その抗日の気運を、ド・ゴール派が英米両国と提携して利用し、日本の南方共栄圏確立を阻止する様な策動を行っていた所以である。」 
                 『安南民族運動史概説』

『松井大将がベトナムのクオンデ候を支援していた』 
  → 松井石根大将は、極東国際軍事裁判-東京裁判で、絞首刑の死刑宣告(昭和23年11月12日)を受けた5日後、巣鴨拘置所の戦犯教誨師だった花山信勝氏に、「私に生命があれば、仏印の安南(旧サイゴン)へ行ってみたい」と語ったそうです。死ぬ間際まで、ベトナムの人々の行く末を心配されていたような気がします。。。      『将軍の真実』

『興亜観音』                 
  → 「「建立縁起」によれば、昭和15年2月、陸軍大将(当時)松井石根の発願により、支那事変での日中両軍の戦没者を「怨親平等」にひとしく慰霊供養する為に、建立されました。」
             神奈川熱海『興亜観音パンフレット』

『1970年三島由紀夫著「金閣寺」ベトナム語翻訳版がサイゴンで発刊』                  → ベトナム語の題名は、その名の通り『Kim Các Tự』(金閣寺)です。今でもベトナムでは結構読まれていて、ネット検索すると沢山見つかります。

『クオン・デ候の帰国声明文「全越南同胞に告ぐ」』
  → クオン・デ候は、1950年にベトナム帰国を試みました。                    
 「1950年(昭和25年)6月11日、予定通り中国船「海明号」で神戸港を出発した。(中略)バンコク港で上陸を拒否され、同じ海明号に乗ったまま、同年7月中旬、横浜港に悄然と戻って来たのである。」   「クオン・デと安藤ちゑのが住んでいた部屋の大家である慶大名誉教授、櫨本増吉が、「海明号のバンコク到着数日後の解禁」という約束で、事前に知り合いの朝日新聞の記者を呼び、事情を説明し声明書を手渡したという。」                     「この声明書は、明治末年に日本に亡命し、ベトナムの独立に命を懸けてきたクオン・デの人生の総決算であった。同時に、同じころ天草からベトナムに渡り、ベトナムの地でクオン・デの”代理人”として、長い間、密かに独立運動を支えてきた松下光廣の”想い”の集約でもあった。」                      「そうした意味で、この声明書はクオン・デ一人のものでなく、松下や西川の人生そのものの総決算だった、といってもよい。」

 このクオン・デ殿下の帰国声明書は、牧久氏の『安南王国の夢』に全文掲載されています。長崎県天草の郷土史家、北野典夫氏が、天草郷土誌『みくに』(1923年発刊、1955年廃刊)に長期連載した『天草海外発展史』の、『独立の志士とともにー松下光広のベトナム人生』の中に掲載されていたものだそうです。現在でも図書館にその記事の原本が残されているそうです。ちょっと長い文章になりますので、又別途ご紹介したいと思っています。

 1943年12月東京での、クオン・デ殿下のインタビューを纏めた冊子のベトナム語訳版『クオン・デ 革命の生涯』。この冊子を、私がこの度全文日本語翻訳し、後半部分に解説とあとがきを添えて、今年8月アマゾンでオンデマンド出版しました。題名は、『ベトナム英雄革命家 畿外候彊㭽 - クオン・デ候: 祖国解放に捧げた生涯』です。           

 約2年前からベトナム語冊子を読み始め、直ぐに、私のベトナム語理解力の問題、というよりも、世界史知識不足が問題だ、、ということが判明しました。そして、懸命に頭を悩ませ、沢山の歴史資料を2年間忍耐強く読みました。調べた内容は、都度文書ファイルに残してましたので、それを本を読んで下さった方の一助にと思い、何處かでシェアできるような方法を考えてこちらに投稿することにしました。 実は、ちゃんと保存してあった筈だったのですが、いざ投稿という段階に何處を探してもファイルが見つからず、唯一作業途中の未完成のファイル一つだけが残されていました。。。しかし、仕方ない、ないよりましか、、と思い投稿始めましたが、なんと結局(19)までになりました。。それでは、あの最終的に完成していたファイルでしたら、もしかしたら(40)とか(50)にもなってしまったかもしれない、、と考えますと、それはちょっと野暮ったいといいますか、長すぎるような気がしますので、これで良かったんだ、、、とやっと諦めたところです。

 そのお蔭で、途中に脱線して新しく書いた別記事を投稿しました。そうしましたら、意外にもその記事を読んで下さっている方が多いようで、特に『クオン・デ候の家族写真の謎に迫る』は、投稿してまだ5日ですが、びっくりするぐらい沢山の方が読んでくれています。フォローまで頂きました!有難う御座います。。。ですので、この『本の登場人物・時代背景に関する補足説明』は、ここで一旦終了となりますが、これ以後、やはりベトナム史に纏わる色々話しをのんびり投稿して行きますので、今後もお読み頂ければ嬉しく思います。

ベトナム英雄革命家 クオン・デ候 祖国解放に捧げた生涯|何祐子|note



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