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ベトナム志士義人伝シリーズ⑱ ~阮朝フランス通詞 阮徳厚(グエン・ドック・ハウ、Nguyễn Đức Hậu)~

ベトナム志士義人伝シリーズ|何祐子|note 

 「1866年西洋留学から帰国したゲアン省出身の阮徳厚(グエン・ドック・ハウ)らが、国際情勢を詳細に述べた上で、一日でも早く政治改革せねば祖国が失われてしまう恐れありと訴状をしたためるが、廷臣らは耳を傾けようとしなかった。」
       チャン・チョン・キム篇『越南史略』

 1975年までのベトナムの大ベストセラー歴史書陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏の『越南史略』にもその名が出て来る程、当時の朝廷政府内で最も名の通ったフランス語通訳官だったろう志士の名が、阮徳厚(グエン・ドック・ハウ)氏です。

 ファン・ボイ・チャウ氏の自伝『自判』には、既に老父母が他界し肩の荷が下りた彼が、1900年頃より幼少の頃からの宿願であった抗仏活動を本格的に開始した頃の事が書かれています。1904年頃、草莽崛起の志士を探し出すために国内各地を訪ね歩いていた時のこと、
 
 「…同じ頃、フランス通詞の阮徳厚(グエン・ドック・ハウ)氏がビン・ディン省の奥地へ流刑になったとの噂を聞き付けた。彼の姿を探して符吉(フ・カット)県までやって来ると、丁度西洋兵10人に連行されて流刑地へ向かうドック・ハウ氏の姿が見えた。遠目ではあったがお互いの目と目が合い、何も言葉を交わすことが出来ずただ茫然と彼の姿を見送った。」

 グエン・ドック・ハウ氏は、1866年頃に西洋留学から帰った経歴の持ち主ですから、元々は阮朝廷政府によって選抜された全国トップ・レベルの秀才だった筈です。実際にフランス留学中にその目で見た、当時のヨーロッパを覆い隠そうとしていた暗雲の急なる事を、留学を終え祖国に戻ってから祖国の未来を憂いて衷言したのだと思います。しかし、一青年留学生の言う言葉へなど、阮朝廷政府高官の誰も耳を傾けようとしませんでした。
 時は流れてとうとう1904年には、彼の訴える『国政改革』『革命扇動罪』、『国家転覆罪』だとして逮捕し流刑にした。 
 天津条約は1885年ですから、それから既に20年過ぎていた頃の朝廷政府内は既に売国奴の巣と化していたのかも知れません。。。😨😨

 ファン・ボイ・チャウは、『自判』の中でこんな話を書き遺しています。

 「その後出洋した香港で、彼に関する希少な話を聞いた。嗣徳(トゥ・ドック)帝の治世下か、グエン・ドック・ハウ氏が通詞として西洋船に同乗して香港の港に着いた時、清匪に拉致され香港で売買される我国婦女子90人を乗せた盗賊船を発見した。英字を理解し、紅毛語(=英語)会話も流暢な彼は、英・仏両国政府に陳情し、被害者の婦女子を国へ送り返す旅費として自分の給金を担保に充てた。この一件を聞き及んだ時のグエン朝廷政府は、彼に九品衞褒賞を授与しようとしたが、彼はこれを辞退した。その彼が、最期は革命策謀の罪状で朝廷政府より極刑を与えられた。

 彼の様に、才に恵まれ義にも厚い立派な仁士に対してさえ、こんな非道な扱いをする。国が滅びない訳がなかろう。」

 その時の政府内には、過日の九品衞褒賞を授与辞退の話を知るグエン・ドック・ハウ氏の同僚や部下、友人たちが沢山居たでしょうに。彼が本当に立派な人士であることは、誰もが知る周知の事実だった筈です。
 
 それなのに。
 人間とは弱いもの。
自分に禍が及ぶとなれば、見て見ぬ振りが出来る、口を噤むことも出来る。国を想い事実を口にした彼が、捕えられ重罪犯罪人として流刑地へ連行される様子をただじっと見ていたのでしょう、言葉を失い、立ちすくんで。
 その時一時だけは、自分と自分の妻子の保身が図れます。が、しかし、50年後、80年後に行き着く先の我が孫・我がひ孫の世代には、≪土民総奴隷という植民(=移民)国家≫がその結末だとは、≪仏領インドシナ史≫が教えてますね。。。





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