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本の登場人物・時代背景に関する補足説明(15)

『蓋棺論定』
  → 杜甫(とほ)の詩。人の真価は、その棺が蓋に覆われた後つまり死後に定まるという意味。

『犬養子爵のことを思い出すと、いつでも溢れる涙を禁じ得ない』
  → 犬養毅の孫で評論家の犬養道子の著書『ある政治の娘』にも、この頃のクオンデ殿下が、青山墓地の犬養毅の墓の前で泣いている姿が述懐されています。

『現在使用している会規約冊子は、あの上海会議中に張英敏が手書きしたものを写した写真』
  → 1924年から25年頃の日本内務省の調査報告に、クオンデ殿下が「金240円で写真機一個を購入し、撮影の研究をしたりしている」と記述にあります。この他にも、養蜂研究に没頭している様子も報告されていて、報告書は、「ただふらふらと遊んでいる」のだと結論付けていますが、実際は、日本でベトナム国語(ローマ字化文字)の印刷機がないために、後々に備えて、写真機を使ってのコピー方法を考えていたのだということが、80年近くたった今日やっと理解する事が出来ました。。。

『陳福定(チャン・フック・ディン)氏』
  → 『越南義烈史』に陳福定氏に関する記述があります。
  「字は知止、永隆省の人。同志と共に出洋団を組織して、東遊運動拡張に奮闘した。率先して自分の二子を渡航させ、クオンデ殿下に預けた。東京で別れる時に「父を念ってはならぬ。もはやわが子ではない、父はお前らと再び会わぬ、ただ死あるのみ」と諭したという。」

『牟田花子、30年以上北圻地方の各省に暮らしていたベトナム語が非常に達者な日本女性』
  → 苗字『牟田』は、調べて見ますと、九州北部地方出身者に多い苗字です。大南公司の松下光廣は長崎出身。そして、当時ベトナムで商売をしている日本人は長崎の天草と九州出身者が大半を占めていたと云います。多分商売人のご両親に連れられ、幼い時にハノイに渡ったか、現地で産まれた日本人女性かと推察します。ハノイ在留邦人が、1940年の北部平和進駐前に一斉に台湾に避難した時など、多分牟田花子さんもその船に乗ったでしょう。。。

「9月22日ベトナム建国軍は、日本軍と共にドンダンとランソンへ進攻しました」
  → 「仏印国境監視委員の中井増太郎大佐の要請で、この時復国同盟軍顧問となる原進、増井準一は、先に澤山商会ハノイ事務所から台湾拓殖の子会社「印度支那商会」に移り、7月に第5師団軍属として南寧に移動、合流してベトナム建国軍幹部を待ち受けた。第22軍参謀の権藤正威中佐にも支援を要請。桜会の和知鷹二(当時、広東駐屯軍付)広東特務機関に支援を依頼。」                  『安南王国の夢』

『重慶物資運送』
  → 英米による蔣介石の重慶政府への援助物資運送のこと。当時は、『援蔣ルート』と呼ばれる武器を含む物資支援ルートが何通りにも張り巡らされ、支那事変以来の日本は終わりの見えない泥沼の戦争に嵌っていた。

『日本軍の永井大佐』
  → 調べて特定したかったのですが、まだ特定できていません。もしかして、『印度支那派遣軍の作戦参謀中井増太郎大佐』のことかもしれません。けれど、クオン・デ殿下の自伝には、はっきり『NAGAI』と書いてあるので、取敢えず『永井大佐』と訳しました。もしかしたら『長井大佐』かも知れません。今後特定出来たらアップデートしたいと思います。。

『南仏印派遣軍』
  → 南印度支那派遣軍のこと。この時の参謀長は長勇(ちょう いさむ)大佐です。後の1942年11月に印度支那駐屯軍(司令部をサイゴンに設置)として再編されました。長勇大佐というのは、福岡県出身で修猷館卒業。1945年沖縄防衛戦では中将で、第32軍の副司令官でした。司令官だった牛島満大将と共に自決しました。
 この長勇大佐は、仏印進駐前に単独でハイフォンから潜入し敵地を偵察したという強者です。長大佐の話は、何れ詳細を別途書きたいと思います。

『浅羽左喜太郎』
  → 「東遊留学生だった阮泰抜(阮超)が、粗食と過労で道で行き倒れて居た時に通りかかり、介抱してお金を渡して去って行った。その後、偶然新聞で浅羽翁の名を知ることとなり、日本退去の時、御礼の為に浅羽翁を訪ねると、翁は上京して、阮超を自分の書生として学費を収め、再入学手続きを済ませた。その縁があり、藩佩珠は思い切って留学生の退去費用を乞う手紙を書くと、直ぐに1700円を送ってくれたという。」
「東京帝国大学卒、静岡の医師。資金に窮したベトナム人留学生を援助してくれた。日本退去後10年ぶりに日本へ来た藩は、静岡に浅羽翁を訪ねるが、既に死去していた為、藩はなけなしの所持金と村人の援助を得て記念碑を建てた。記念碑は今も静岡浅羽村(現在の静岡県袋井市梅山)に残る。」
                      『潘佩珠伝』

『フランスの、狡猾で周到な準備計画による外交手腕の勝利』
  → この件に関して、大岩誠氏もご著書の中で言及しています。
 「この協約は要するにアジアにおける自国の領土及び地位を確保することを約した簡単な条約であるが、実は新興ドイツ対する一つの牽制策であり、第一次世界大戦の伏線となったのであるが、当時のフランスとしては其の直接目的を叙上の植民地の不安を除くことに置き、それと同時に日・仏印通商条約を締結しようとする日本の要求を他に転じ、仏印の独占鎖国政策を強行すつ意図を持っている。」

『大陸浪人宮崎滔天(みやざき とうてん)』
  → 「潘佩珠は、犬養毅の縁で知り合いになった孫文から、宮崎滔天を紹介されたという。宮崎の話が、当時日本で活動していた中国革命党や東京に留学していた各国の志士と協力していく考えへと方向転換するきっかけになったと「自判」に回想している。」
                   
『潘佩珠伝』

『経済的軍備拡張論』
  → 「まずは軍事と経済の力を均衡させ、兵役年限を短縮して経費を抑え、その分を予備役に回して兵力の動員を可能とする。今、必要なのは小手先の増師ではなく、国力に見合った国防体制を根本から見直す一大変革である。」              『狼の義 新犬養木堂伝』

『選挙権の拡大案』
  → 「選挙資格の納税額を十円から二円に、年齢を25歳から20歳に引き下げ、兵役の義務を終えた者には全員、納税の有無にかかわらず選挙権を付与。」              『狼の義 新犬養木堂伝』

『普通選挙法』
  → 「選挙権は25歳以上の男子と定められ、有権者は全人口の2割にあたる1240万人、これまでの4倍に増えた。」
                 『狼の義 新犬養木堂伝』

『養蜂研究に没頭しているという1924年の内務省報告』
  → 「本郷区追分町31番地第2中華学舎内自称支那名林順徳事阮福彊柢本人は客年五月頃より養蜂を企て、岐阜市本荘久保見岐阜養蜂場より種蜂をとりよせ、目下盛んにこれが繁殖を計り居れるが、近来はおおむね在舎書見等に耽り、、、」
                『ヴェトナム亡国史 他』

本の登場人物・時代背景に関する補足説明(16)|何祐子|note
ベトナム英雄革命家 クオン・デ候 祖国解放に捧げた生涯|何祐子|note




















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