見出し画像

ホー・チ・ミン氏とは、結局一体誰?・続編 ~ホーおじさんのコミンテルン人脈を探る!~

 先日、こちらの記事⇒ホー・チ・ミン氏とは、結局一体誰?①で、『ベトナム革命の父』と呼ばれる『胡志明(ホー・チ・ミン)氏』、愛称ホーおじさんは、一体どんな人だったの…?、という素朴な疑問を戦前史料を元に少々オタク🤓な探索をしてみました。。。😅😅

 今日はその続編として、戦前(&戦後)古書に在る、阮愛国(グエン・アイ・クオック)ことホーおじさんのフランス~ソビエト・モスクワ時代の情報断片を張り合わせて、この当時を少々検証したいと思います。😊

 取敢えず今一度、この辺の阮愛国(グエン・アイ・クオック)氏の経歴をT.Eエンニス氏著『印度支那(インドシナ)』から見てみます。⇩ 

「…この頃(1918年)、彼(=阮愛国)はフランスの無政府主義的団体たる人権同盟、猶太(ユダヤ)人の国際的秘密結社たるフラン・マソン(フリー・メイソン)などに加盟した。
 1920年、ツールで開かれたフランス共産党大会に代表として出席。(中略)1923年、モスクワを訪れ、世界農民協議会には安南代表として出席した。ロシアに数年間、留まって研究生活を続け、革命戦術を体得したうえ、広東に派遣されてその地でソビエト領事館の出版部員となった。この地において彼は、被圧迫民族解放同盟及び安南革命青年協会を組織して活躍した。漢口ソビエトが、1927年蒋介石によって弾圧されたとき、阮愛国はボロージン及びガレン将軍に従ってロシア入り、彼の地でインドシナ共産党の組織を始めたのである。」

 これ以後の阮愛国については、日本・フランス・アメリカ等の記録で『1930年代初期に阮愛国は肺病で死亡』の情報が一致してたり、香港で入院中の阮愛国へ宛てたクオン・デ候の見舞いの手紙もフランス海外領土省に保管あり…というミステリーがありまして、ご興味のある方はこちら⇒(ホー・チ・ミン氏とは、結局一体誰?②を御一読下さい。😅😅

 阮愛国の足跡は、

1923年、モスクワを訪れ、世界農民協議会には安南代表として出席」

 この史実部分は、この⇩会議のことだと思います。⇩

 「コミンテルン第三回大会は極東民族大会の開催を決定し、翌年(=1923年)の一月、この極東民族大会はモスクワで開かれ、日本代表として出席したのは徳田球一、高瀬清、吉田一、北村英以智など七人であった。同時に在アメリカからも鈴木茂三郎、二階堂梅吉、間庭末吉などが参加した。ベトナムのホーチミンもこの会合に参加したといわれている。」
         松本清張著『昭和史発掘 三』より

 そうなると、阮愛国はこんなに沢山の日本人共産主義者と、モスクワで知り合いに。(←結果的にそうなりますよね、普通。😅) 
 これら日本人らは、「レーニン、…スターリン、ブハーリン、ジノビエフなどと数度にわたり会談した」とも書いてあるので、阮愛国も当然それらロシア人とも会談した筈だろ…と仮定して、以後の行動を上の文章に沿って検証したいと思います。さてこの後に阮愛国は、

「ロシアに数年間、留まって研究生活を続け、革命戦術を体得したうえ、広東に派遣されてその地でソビエト領事館の出版部員となった」

  このロシアに留まっていた期間を1923年から広東領事館赴任の1925年までとした上で、ではさて、この期間日本で何があったのか??を調べてみますと、、、
  ジャーン!!😅😅😅⇩ ⇩ ⇩

1922年11月 日本共産党がコミンテルン日本支部として正式認可
1923年 第一次共産党検挙(第一次弾圧)
      関東大震災で共産主義者や朝鮮人が暴動により殺害さる
1925年 第2次共産党検挙(第一次弾圧)
      治安維持法成立💦💦💦

 日本国内では、共産主義大弾圧の嵐が吹き荒れてました!!😭😭 

 ではきっと阮愛国は、遠いモスクワに在りながらあの会議で知り合った日本人同志たちの受難に心を痛めたでしょう…、そんな中できっと阮愛国は、全世界的革命使命を担って広東ソビエト領事館に赴任したことでしょう…。

 この、『1925年頃広東に来てソ連領事館のボロージン下で働いていた』部分は、クオン・デ候自伝『クオン・デ 革命の生涯』の記述とも、ファン・ボイ・チャウの自伝『自判』記述とも完全に一致する為、これは間違いないと思います。
 ではさて、阮愛国が広東入りする前年に、コミンテルン執行委員会がベトナム国内の共産主義者に宛てた檄文がこちら。⇩

 「既に5年以来一つの団体はロシアに建設の歩を進め、世界の労働者を悉く一致団結せしめることを目的としている。その団体は国際共産党(=コミンテルン)と称する。(中略)或るものは嫉妬し、或るものは羨望し或るものは土地のために闘争する。或るものは黄金のために争う。搾取と不正義は世界到るところに行われる。しかし今や断固として此の害悪を討滅するべきだ。これが国際共産党の目的である…。」
        (1924年2月27日付) 

 この頃のインドシナでは、モスクワで印刷された刊行物『赤救』『学生連盟』『安南独立党』『インドシナトリビューン』『赤旗』等々が流布していたそうです。そしてコミンテルンは、インドシナに於ける共産主義者の先鋒部隊とするべく、当然抗仏運動の中心地『安南=アンナン(中部ベトナム)』に注力した。要するに、儒教素養があり、抗仏戦闘に慣れた広南(クアンナム)・広義(クアンガイ)地方を中心にそのまま戦力にする戦略です。(←さすがコミンテルン、頭いい。。😅)
 そんな中、国内・海外でこんな動きが。⇩
 
1924年
 6月 
メルラン総督襲撃 沙面爆弾投下事件
 7月 ファン・ボイ・チャウが広州で『ベトナム国民党』組織
    ベトナム国民党名でメルラン襲撃声明を出す

 この⇧、広州で結成した『ベトナム国民党』『党則』に関して、『阮愛国(グエン・アイ・クオック)が(ファン・ボイ・チャウへ)度々改訂を依頼して来た』との記述が、ファン・ボイ・チャウ自伝『自判』にあります。
 こうして考えて見ると、この数年前から息を吹き返し活発になった国内外ベトナム人志士による一連の動き(襲撃事件、暴動、デモ、国民党結党等々…)というのは、勿論志士達の力もありますが、陰で『コミンテルンが動かした』と見ても、あながち間違っていないような気もします。。。

 そんな中、1925年5月ファン・ボイ・チャウは逮捕され本国送還、フエに自宅蟄居となりました。では、阮愛国(グエン・アイ・クオック)はどうしたかというと、、、⇩

「1927年…、阮愛国はボロージン及びガレン将軍に従ってロシア入り、彼の地でインドシナ共産党の組織を始めた」

 要するに、広州からソビエトに戻って、コミンテルンの元で『インドシナ共産党』結党準備を始めた訳です。そして、満を持して1929年に『インドシナ共産党』結党
 T.Eエンニス氏は、
 「インドシナ共産党(ベトナム共産党)はソビエトの線に沿って組織され、モスクワの第三インターナショナルの指導下にある。(中略)…安南人は第三インターナショナルの闘争に巻き込まれている。この機関の執行委員会には一人の安南人具農(グィ・ノン)なる人物が参加している。…(モスコーの中央本部には)その幹部として安南人唐文教(ドゥン・バン・ジャオ)が入っている。
 とも書いてますので、そうなると、阮愛国(グエン・アイ・クオック)の直接の上司はこの極めて支那帰化系の色濃い名字を持つ2人ということになるのか。。。
 「…ミカエル・ボロージンは安南革命家才慶士(タイ・カイン・シ)を助けてインドシナ共産党を結成させた。」
 とも書いてますが、この『才慶士(タイ・カイン・シ)=『阮愛国(グエン・アイ・クオック)』なのかどうかは史料不足で解りません。。

 話を戻し、インドシナ共産党の結党直後にベトナム国内で何が起こったかと云うと、⇩

 1930年 安沛(エン・バイ)事件発生

 この『安沛事件』についてはこちら(⇒「安南民族運動史」(5) ~安沛(イエン・バイ)事件~をご一読下さい。この事件以後、仏領インドシナ連邦内あちこちで仏印政府に対する暴動、爆弾投下、襲撃、反租税デモが止まることなく発生したのでした。

 ここで、上の掲題に沿って纏めますと、
1,阮愛国(グエン・アイ・クオック)は、1923年モスクワで同じ大会に出席してた沢山の日本人共産主義者たちと知合いになっていた
2,1924年メルラン襲撃事件、ベトナム国民党結党の背後にコミンテルン(=阮愛国)が動いていた
3,第三インターナショナル執行委員には安南人具農(グィ・ノン)、モスコー中央本部幹部には安南人唐文教(ドゥン・バン・ジャオ)。⇒阮愛国の直接の上司
4、1930年ベトナム国民党による『安沛事件』の裏にもコミンテルンが深く係わっていた
5,
才慶士(タイ・カイン・シ)=『阮愛国(グエン・アイ・クオック)』か、或いは別々の人物か・・・

 と、このような⇧可能性が導き出せると思います。
 あくまでも、暇人主婦の個人的推察です。。。😅😅

 しかし、もし上記3の線に沿えば、『1930年代初期に阮愛国は香港で病気で死亡』説に真実味が帯びるのではないでしょうか。コミンテルンの執行委員と中央本部には、それぞれベトナム人幹部がちゃんと居たなら、実は彼の死は影響が少なかった。
 そして、上記5でもし別々の人物だったなら、残った方の人が後に広西省に潜入してクオン・デ候と日本軍が組織した『ベトナム革命同盟会』に参加し、その後のホーおじさんに変身(?)…という可能性も出て来るなぁ、とも思います。

 。。。💦💦どこまでも、暇人主婦の推察に過ぎませんが。。。😅😅

 いずれにせよ、この1930年がコミンテルンのアジア戦略の節目になったと云えるようです。
 『安沛(エン・バイ)事件』後、動揺したフランスは…。時のインドシナ総督パスキエの、1930年10月総督府会議上の発言がこちら⇩

 「東京(トンキン)では共産主義宣伝も弾圧の結果不活発になったが、コーチシナ(南部)及び安南(中部)では多くの細胞は活発に活動している。同時に事件が起こるのを見ても、一連の計画と指導とによるものであることが明らかに示されている。彼等は過去4年間に続発した蘭領東印度(=インドネシア)における活動に関連をもっている。」

 
そして、フランス人識者ジャン・ドルサンヌの新聞投稿記事がこちら⇩

 「…残念ながら、ソビエトは我が保護領の人民に革命趣味を教えた。(中略)今まで我々は難局を切り抜けたが、それも孤立した組織の無い徒党が団結力もなく指導者もなくて起こした騒動だったからこそ、これを切り抜けることができたのである。ところが、今や共産党員は彼等を訓練している。(中略)
 かつて前インドシナ総督が言ったように、ソビエト・ロシアはアジアにおいて反欧米攻撃を開始した。すなわち全アジア的世界を蹶起させたのである。今や断固として之に抗戦するか、然らずば自滅するかの時である」
       『 Le péril rouge en Indochine, 1932』

 えーと。。この⇧時期は1932年です。。

 。。。日本軍『仏印進駐』(1940年)の8年前に既に欧米列強は、『我らの愛する植民地・アジアを狙う脅威はソビエト・ロシアだ!!』と明確に敵認識してたと。。。😅😅
 その順番で行くと、我が大日本帝国による大東亜戦争は、ちょっと遅れてこれに続いた…?、という見方も有りうる。。。💦😅😅

 ではでは、1930年頃の日本国内は一体どうなっていたの?と調べて見ますと、、
  ジャーン!!!😅😅😅 ⇩ ⇩ ⇩

1928年3月15日 3.15事件
1929年4月16日 4.16事件

 泣く子も本当に黙ると恐れられた『特高警察(特別高等警察)』による大検挙で、日本共産党の幹部が殆ど根こそぎ逮捕されて党は潰滅状態になってました。。。😵‍💫😵‍💫😵‍💫

 あれ、変ですね。それで整理すると、
 欧米植民地主義から、共産主義(ソビエト・ロシア)はアジア植民地解放を目論む脅威と見做された頃
   ⇒日本国内では共産党と共産主義者の大弾圧。。


 こ、これは、、、日本の特高が、偶然間接的にアジアの欧米植民地主義を援護してたことになっちゃうか・・・。💦💦😅😅😵‍💫  

  

 

  


 


 

 

 

  

 

 

 

 
 
 

 

 
 

 



 

 
 

 

 

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?