満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』② ~フランスのインドシナ征略史-ポルトガル人先駆時代とフランスの進出~

満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』① ~民族略史~

二、仏蘭西(フランス)の印度支那(インドシナ)征略史

 Ⅰ、葡萄牙(ポルトガル)人先駆時代

 インドシナに最初の足跡を印したのは、ポルトガル人フェルナン・プレである。時に紀元1516年。恐らくは現カンボジアの沿岸に上陸したものであろうが、次いで1524年にデュアルト・コエルオ、更に35年アントニオ・フォリアが続いて入国した。これら先駆者の開拓により、ポルトガル船舶は相次いでカンボジア沿岸にその姿を現したが、更に同邦を今後の根拠地となさんと欲し、その常套手段として1553年同地に教会を設置しキリスト教の布教を試みたが、カンボジアは熱烈なる仏教国であるため、却って土民の反感を買い、ポルトガルの意図するところは完全に失敗するに至った。

 Ⅱ、フランスの進出

 斯くてインドシナと西欧諸国との交渉が絶えること数十年に及んだが、我国の鎖国は是が関係を復活せしめることになった。即ち我国を追われ又は我国への進出を拒まれた宣教師等は、新たなる布教地を発見せんとしてインドシナに着眼し、先づ当時外国人に門戸を開放していた安南の會舗(ファイ・オ=現ホイアン近く)に教会を建設した。

 ポルトガル人を中心勢力とする是等宣教師は安南(アンナン=中部ベトナム)、交趾支那(コーチシナ=南部ベトナム)の布教に努力したが、やがてその努力が酬いられるに至ったので、彼等の眼は新に東京(トンキン=北部ベトナム)に向けられた。

 先づ可能性を打診すべく1626年2月2日、ギュリオ・ピア二はトンキン探検の路に上がり、種々苦心の後、同地に到着し土民より非常な歓待を受けた。この成果に狂喜した彼は同年8月18日帰還し、是が有望なることを報告したので、トンキンの布教は決定され、その先駆者として選ばれたのが、フランス人宣教師アレキサンドル・ド・ロードである。
 トンキンに向かったロードは、翌1627年3月入国し、布教に尽くす傍ら言語、風俗、歴史の研究、資源の調査を行う等超人的な活動を続けていたが、1630年3月誹謗されて鄭桑(チン・チュン=北部領主鄭氏3世、在位1620-45年)に追われ、一事マカオに難を避けたが、1604年再びコーチシナに帰還し、布教に努力した。彼は自己の経験及び信徒の増加より見てインドシナが絶好なる布教地であるとの確信を有していたが、なおその勢力を確保するには司教区をインドシナに設置することが必要であると考え、ローマ法王の許可を求むべく1645年7月3日コーチシナを去り、49年6月26日ローマに到着した。

 然し彼は、法王廷に於いて意外にもポルトガルの猛烈なる反対運動に直面した。即ちポルトガル人は法王より東インドに於ける布教の独占権を与えられ、ゴアに司教区を設置していたが、更にインドシナに司教区を設けることは、同国に於けるフランスの勢力を拡大させ、ひいては自国の勢力を失墜させるものとして頑強に之に反対したのである。斯くて交渉が長引いている間彼はパリに行き種々奔走したが、結局満足すべき結果を得られず、失望の裡に新任地波斯(現イラン)に赴き、1660年同国で歿した。

 ロードの希望は空しく水泡に帰したが、ロードを支持せる人々はなおこれに屈せず設置運動を継続し、遂に1658年その要請は法王の認める所となり、フランス‐インドシナ間に始めて宗教的関係が結ばれるに至った。

 一方フランスに於いては宣教師を要請すべく、1663年パリに『外国伝道協会』が設置され、次いでこの宣教師の輸送の為『貿易会社』が設置された。更に当時海外交通を独占していたオランダ及びポルトガルに対立すべく1664年『インド会社』が設立されるに及び、インドシナへの交通は漸く頻繁になった。旅行者は帰国後、異口同音に資源の豊富なることを話し、之が開発を主張するに至り、インドシナに対する神秘的興味は、次第に現実的性質を帯びていった。数ある旅行者のうちに特に有名なのはピエール・ポアブルである。
 彼は、1719年リオンに呱々の声を挙げ、『外国伝道研究所』に入門したが、後同所を去りインドシナの旅に上がったのである。帰朝後『インド会社』に提出せる旅行記は、同社首脳部の注意を惹くところとなり、彼はコーチシナに於ける商館の設置及びオランダ人の独占せる香料を『フランス島(=モーリス島の古名)』に移植するという2大使命を託されて再びインドシナに向かった。1749年ツーラン(=ダナン)に到着、更に順化(フエ)に赴き非常な歓迎を受け、持参した商品は引っ張り凧になった程の成績を示した。
 しかし、さていざ勘定となると払う者は一人もいなかった。彼はこの様な土民を相手に商業を営むためには、先づ彼等を恐れさせ尊敬さすべき手段を採ることが必要であると考え、帰朝後時の海軍大臣ショアズイーにその旨を具申した。この案は一旦採用されたが、ショアズイーの失脚により実現されなかった。更に1775年再びヴェジェンヌ海相は之を決行せんとしたが、ヴェルサイユ内閣は外政費を恐れ、且つ当時アメリカの独立戦争が注目の的となったいたため、これも抛棄されるを余儀なくされた。
 一方、インドシナに在った宣教師も僧侶の迫害、これに加えて9年戦争及び1790年の『インド会社』の解散により帰還する者多く、斯くて折角インドシナに芽生えしたフランスの勢力も、又もや失われるに至ったのである。

 ****************

 ちょっと目先を変えて、この頃の欧州一般に於ける『極東』の存在を見てみます。自分(東側)視点だけでなく、向こう側(西側)視点を加えて見ると、結構面白いです。。⇩

 「極東が欧州の著作家たちに知られたのは老ブリーニウス(AD23-79)の時代を以て濫觴とする。この作家は、ローマ帝国の東方遥か彼方に『黄金の花咲くケルロネースス』を記したが、これこそインドシナを指すものと考えられていたのである。
 ヒッパルコス(BC146-125、ギリシャの天文学者)はモンスーン(季節風)の影響を発見し、ティルのミロ(BC3世紀頃のビザンツ生まれの詩人)は東太平洋について多少の知識をもっていたように思われる。この地方のことはローマ人も知っていた。
 ローマ人等は、ペルシアの商人がマラッカ地方から運んで来る錫を買っていた。東洋貿易は、永年の間ペルシア人とアレクサンドレーア人に支配されていたものだが、キリスト紀元7世紀の頃、広い範囲に亘って之がアラビア人の手に移った。しかも彼等は殆ど7百年もの間、総べての通商路に対し悠々として独占的な優越権を握っていたのだった。(中略)
 
 14、15世紀の頃は東洋も欧州人の心にとって事実ひとつの神話の国だった。不思議な土地で現実にあった数々の冒険についての物語は、実話と小説との混合物である。(中略) 
 15世紀の終わりに近づいて漸く欧州は、東アジア地方を直接往来するようになった。航海王エンリーケ公(=ポルトガル王ホアン一世の第4王子)の影響を受けて、ポルトガルは此の豊沃な新世界地方に進出し、貧欲な眼をインドの富に注いだ。ヴァスコ・ダ・ガマは1497年カリカットに上陸し、探検家、軍人、伝道師さては商人たちに東洋への道を拓いたのである。」
         
  T.E エンニス『印度支那』より

 それと、上記本文中⇧の「1626年……、8月18日帰還し、是が有望なることを報告したので、トンキンの布教は決定され、その先駆者として選ばれたのが、フランス人宣教師アレキサンドル・ド・ロード…」とありますが、これは現ホーチミン市でもお馴染み、旧大統領官邸の直ぐ近くの『在ホーチミン市ベトナム外務省』の真ん前の通りの名前です。😅

 ベトナム抗仏史を知れば、この覇道一神教の切込隊『イエズス会』の宣教師の名前を何でわざわざ『ベトナム外務省』真ん前の通りの名にするのかな?と,ちょっと不思議。。。(笑)
 ネットで調べると一応現政権の公式見解は、⇩

 Paracels(パラセル=ホアン・サ)通り(1871.6.2)⇒Colombert(コルベール=同じくイエズス会宣教師)通り(1871.10.16)⇒Alexandre de Rhodes.(アレキサンドル・ド・ロード)通り(1955.3.22)⇒Thái Văn Lung.(タイ・バン・ルン=抗仏時代の法律家)通り(1985.4.4)⇒再び Alexandre de Rhodes((アレキサンドル・ド・ロード)通りで、何時からかは不明…😅😅 (笑)

 いずれにせよ、この説明⇧が正しければ、不思議なんですケド、1871年から1985年迄と今現在も、一貫して『イエズス会宣教師』が堂々と外務省建物前の通り名を獲っている訳です。
 大統領官邸の真ん前の大通りは『レ・ズアン通り』。レ・ズアン氏と云えば、『初代ベトナム共産党中央委員会書記長』だった方で『統一ベトナムの最高指導者』だったトテモ・エライ御方。。。嗚呼…それなのに…。大統領官邸から真直ぐ通りを突っ走ると、なんと動物園(どうぶつえん🐎🦌)に突進してしまうという。
 それを横で涼しい顔して眺める『イエズス会=外務省』
 現代ベトナム・ミステリーがまた一つ浮かび上がりますネ。😑😑😑🤐🤐🤐

 ********

 次回は、『Ⅲ、安南(あんなん)の内乱より統一までのフランスの勢力扶植』です。😊😊😊


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?