遺伝的アルゴリズムというギミックと、「神は沈黙せず」という小説、あるいは山本弘という作家は、案外、相性が悪かったのでは?という雑考

良く顔を出してるSFファンの集まりで、先日亡くなった作家の山本弘さんの著書の読書会をやろうと云う事になった。
課題図書は、星雲賞を受賞した「去年はいい年になるだろう」に決ったが、他にも、同氏の著書でオススメのモノが有れば、各自、紹介しようって話と相成った。
で、個人的には「去年はいい年になるだろう」と並ぶ同氏の代表作「神は沈黙せず」について言いたい事が色々と有るのだが……以下は、その「言いたい事」に関する、とりとめもない雑文である。

齢がバレるが、山本弘氏の小説「神は沈黙せず」が出た時には、私は既に大学の修士過程までを終えて社会人になっており、大学に居た頃は工学部の情報系だったのだが……今にして思えば……と言うか、学生の頃の記憶でも、何とも変な研究室に所属していた。
画像処理とパターン認識を主にやってる研究室であり、研究室の先輩や同僚には、ニューラルネットや遺伝的アルゴリズムに関する研究をやっている者も少なからず居た。
そして、指導教官の学生時代の論文・研究のテーマも主にニューラルネットだったが……何と、ニューラルネットに関する研究で博士号を取った筈のこの指導教官、ニューラルネットってモノを余り信用してなかったのである。
学生の卒論研究が巧く行かなくなると「でニューロ使ってみるか」と言うような感じだった。
まぁ、そうなるのも仕方なく、その指導教官が学部生だった頃にはパーセプトロン(要は1つの神経細胞をシミュレートしたもの)が注目されていたが、博士論文を書く頃には、もう、そのパーセプトロンの限界が見えていた頃であり、そして、私が大学生になる少し前ぐらいにバックプロパゲーションという多層ニューラルネットを巧く学習させる事が出来る手法が見付かるまで、ニューラルネットの研究は「冬の時代」を迎える事になる。
そして、私が社会人になった頃には、多層ニューラルネットも「応用なら面白い分野も有るが、基礎研究は行き詰まり」という状態になり、2010年代後半にディープラーニングという手法が出るまで、またしても、ニューラルネット研究は冬の時代に突入した訳である。
そして、私が居た研究室では……「複数のニューラルネットを育てて、遺伝的アルゴリズムで一番いいのを選抜出来ないか?」みたいなのも過去に有ったが、どう考えても竹に木を継ぐような代物で、学部の卒論発表ならギリギリ許されても、修士論文となると流石にアカンみたいな状況だった。
要は、私には「神は沈黙せず」に出てきた遺伝的アルゴリズムなるモノについての知識は有ったが、「かなり変な大学の研究室で同僚がやっていた(ので、自分で研究した訳じゃないが、ゼミの発表なんかは聞いてた)」「自分でやってた訳じゃないが、他人がやった遺伝的アルゴリズムを使った研究の卒論・修論ぐらいの内容は理解出来る」程度の知識だった訳である。

あ、書いてる途中で気付いたが、ここからは「神は沈黙せず」のネタバレを思い切りやるので、読んでない方は御注意下さい。

てな訳で警告はしたので、次の段落ぐらいで、さっそくネタバレをしていも良いだろう。
「神は沈黙せず」は「もし、我々が現実だと思っているこの世界が、実は巨大な遺伝的アルゴリズムだったら?」というのがメインの仕掛けギミックとなっている。
遺伝的アルゴリズムとは、進化のシミュレーションを応用した計算手法である。
例えば、ある数値の組合せ(例えば、乗り物の形状を決めるパラメーターとか)の中から、ある評価基準に最適化したものを選ぶとする。
ところが、評価基準は明確なのに、最適な組合せを見付けるには、理論上、総当たり法のような計算コストが膨大になる方法しか無い場合は、結構有る。
そこで、生物進化のシミュレーションのように、まずは、ランダムな値からなる「個体」を何体も生み出し、その個体達の間で、生物の交配や突然変異を模した操作を行ない次の世代を生み出す。
だが、各世代の個体が「子孫」を残せるかは、設定された評価基準から見て上位の特定個数の個体か、評価基準への適合度に応じて子孫を残せる確率を変えるようにする。
それを何度も繰り返していけば、評価基準に最適化された……である事は保証出来ないが、少なくとも、総当たり法よりも遥かに低い計算コストで準最適解が生まれる筈……である……多分……。
つまり、ある評価基準をダーウィン進化論で言う「環境」に見立てている訳である。環境に適合した個体ほど子孫を残せる確率が高いなら、最終的に「理論上、最もその環境に適合した」かは保証出来ないにせよ準最適程度には適合した個体は、いずれ出現するだろう、という訳である。

で、ここで、何で「最適」なんて言葉を使っているかと言えば……実は、この遺伝的アルゴリズム、生物進化のシミュレーションを元にしているが、
ある意味で、当然である。
先祖は「生物進化のシミュレーション」であっても、「工学屋が使う計算手法で求められるモノ」という「環境」に適応している内に、先祖とは別のモノへと成り果てる……あるいは進化するのは当然である。
例えば、生物学屋さんであれば、「環境」を数式化する場合に「その評価式に各『個体』をブチ込んだ場合に、出て来る値が大きいほど『良い個体』」になるように評価式を作り、工学屋の場合は「その評価式に各『個体』をブチ込んだ場合に、出て来る値が小さいほど『良い個体』」になるように評価式を作る事が多い……らしい。早い話が「最高得点」みたいな言い方の方が判り易かろうが「得点が高いほど悪い」ような評価方法を使う場合も結構有るのである。
要は、後者は前者の±を反転させただけなのであるが、前者は「進化とは山に上っていくようなもの」というイメージ、後者は「進化とは適当な場所にボールを置いておけば、転がり落ちて、やがて、その辺りで『最も低い場所』で安定状態になるような自然に起きる事」というイメージであろう。
まぁ、工学屋は良く「ある評価基準に基く最適解を見付ける」事を「エネルギー準位が最低の状態を見付ける」事に喩える場合が多いので「ボールが転げ落ちる」イメージの評価式にする事が多いのだろうが。
あと、私見だが「その評価式に各『個体』をブチ込んだ場合に、出て来る値が大きいほど『良い個体』」になるよなに評価式はラマルク進化論的、「その評価式に各『個体』をブチ込んだ場合に、出て来る値が小さいほど『良い個体』」になるような評価式はダーウィン進化論的な気がするんだが、どうだろうか?

で、山本弘氏は「神は沈黙せず」において「遺伝的アルゴリズムという工学手法が有効である」事を進化論が正しい事の傍証として描いているが、んな訳有るか、ってのが、理学屋さんから「あいつらは、いい加減だから」「理学部以外の大学の理系の学部は大学じゃなくて、ちょっと高度な専門学校」と糞味噌に罵られてる(逆に工学部には1つの学科に1人は「理学部のセンセは頭が固いから」と言ってるセンセが居る)工学屋の意見である。
はっきり言えば、遺伝的アルゴリズムは生物進化のシミュレーションから派生しながら、先祖とは別の環境に適応している内に、その先祖とは別のナニカと化してしまった代物である。
例えば、生物進化のシミュレーションでは実際の生物進化に似ていたり、生物進化について新しい知見が得られるような結果を出すのが「良い事」であろうが、遺伝的アルゴリズムは計算コストの少なさなども「良い」かどうかの基準の1つになる。
例えば、遺伝的アルゴリズムにおいて「後の世代になるほど生き残れる個体数を減らす」ような事をやった場合、計算コストは減るのに、出て来る結果はほぼ同じなら、断じてやるべきである。でも、こんな代物が工学手法として有効な事が進化論が正しい事の傍証なら、「何かの超越者の介入が有った方が進化のスピードは速くなる」ような事も生物学で検討せにゃアカン事になりかねないが、んな訳が有る筈が無い。有ってたまるか。

ところで、ダーウィンが生きていた頃に、ダーウィンの進化論を批判した人達も、実は、ダーウィンの進化論をちゃんと理解した上で批判していたのでは? というエピソードが有る。
例えば、こんな批判が実際に有ったそうだ。
「ダーウィンの自然選択が自然界に実在するメカニズムならば、それは、『進化』を抑制する方向に働く事が有るのでは無いのか? ダーウィンの言う自然選択が進化を引き起すのは環境の変化が起きた場合のみではないのか? 逆に長期間、環境が安定していたならば、自然選択によって何が起きるのか?」
生物進化のシミュレーションは実際に起きた進化のメカニズムに対する仮説が正しいかを検証したり、進化のメカニズムについての新しい知見を得る為に行なわれるモノであろう。
だが、遺伝的アルゴリズムは、あくまで計算手法である。過程はどうでもよい……という程ではないが、さほど重要ではない。なるべく早く、それも、なるべく少ない計算時間≒計算コストで。
その為なら、「進化を促進する超越者の介入」をアルゴリズム化出来るなら、それすらも取り込む。
そして、「神は沈黙せず」に出て来たポケモンもどきの進化シミュレーション・ゲームは、明らかに進化のシミュレーションであって、進化のシミュレーションの子孫でありながら、別の環境に適応し別の存在と化した遺伝的アルゴリズムではない。鯨そのものと、その先祖に当る陸上生物ぐらい違う。
遺伝的アルゴリズムは、あくまで計算手法だ。たとえ、その「先祖」が生物進化のシミュレーションであろうとも。生物進化のシミュレーションとしては興味深い事が起きても、環境=評価基準がコロコロ変ったりしたら、存在目的そのものを凌辱されるも同じだ。
「ある評価基準になるべく適合した値の組合せを見付ける」計算で、その評価基準が計算途中でコロコロ変ったら、そもそも、一体全体、何をやりたいのだ? としか評しようが無い。
そりゃ、遺伝的アルゴリズムの子孫が更に別の環境に適応して先祖返りを起こす可能性だって有るだろうが……「神は沈黙せず」における作者の発想は、工学手法を扱っているのに、視点はあくまでも理学屋さんのモノに思えて仕方ない。
「神は沈黙せず」は遺伝的アルゴリズムを計算ツールとして使っている工学屋の発想では出てきにくい場面や展開が山程有る作品なのである。それが良いか悪いかは別にして。

と、まぁ、ここまでの「神は沈黙せず」に関する違和感は、まだ、本題ではない。
一番、アレ? と思った点は、ラストである。

この物語には、作者自身の堕落した姿と言うべき悪役が出て来る。
その悪役は「我々が現実だと思っているこの世界が、実は巨大な遺伝的アルゴリズムなのではないか?」という確信を抱く。
では、遺伝的アルゴリズムを行なっている超越者が「選ぶ」のは、どのような個体か?
その悪役は「レアな個体」だと考える。
そして、あるとんでもない事態を引き起し……そして、自分は「レアな個体」として神に選ばれ、永久に保存される筈だ、と主人公に対して勝ち誇る。
しかし、主人公は遺伝的アルゴリズムの専門家(この設定も色々と言いたい事は有るがややこしくなるので割愛)である兄の、ある仮説を提示し、悪役の考えが間違いである事を示し、悪役を絶望のズンドコに叩き込む。
悪役が神に選ばれる為に行なった……早い話が大量虐殺は、何の意味も無い、とんだ徒労だったのだ。

ところが、ここで、主人公が悪役を打ち負かすロジックは、本作のメイン・ギミックである遺伝的アルゴリズムとはなのだ。
哲学者ジョン・サールの「中国語の部屋」仮説を元にした「この世界が巨大な遺伝的アルゴリズムなら、神が生み出したい・進化させたいと願っているのは、人類社会そのもの、または、地球の生態系そのものであり、それを構成する個々人はレアでユニークな者も平凡な者も邪悪な者も善良な者も、皆、等しく『神が生み出したいと願っている存在』の一神経細胞に過ぎない」……そのロジックで悪役を打ちのめすのである……。

って、ちょっと待て、そのオチだったら、メイン・ギミックが遺伝的アルゴリズムである必要有るか?
むしろ、この世界が神による壮大な計算プログラムなら、実は、その計算手法は、遺伝的アルゴリズムと見せ掛けてニューラルネットだったとした方が、辻褄の合うオチにならないか?
ひょっとして、山本弘センセ、この小説を書くに当って、実際に遺伝的アルゴリズムのシミュレーション・プログラムとか作って試してないのか?(注:この頃、既に、日本にはSF小説を書くに当って実際にプログラム組んで作中に出て来るロジックや計算が正しいかを検証してる作家さんは複数居ました)
何だったら、あの悪役を絶望させるロジックなら遺伝的アルゴリズムの「中」に厳として存在してるだろ。
それも、「作中で2番目ぐらいに頭がいいが、自分は特別な人間だと思っている」悪役が、確実に見落してしまうモノが。
遺伝的アルゴリズムは「環境に適応した個体が次代に子孫を残す確率が高まる」というやり方を用いた計算手法だ。
その元では、世代が後になるほど、環境への適応度が高い個体が増えていく。世代が後になればなるほど、その世代におけるチャンピオンと良く似た固体が全体に占める割合も増えてしまうのである。
つまり……1
もし、この世界が実は超越者が行なっている巨大な遺伝的アルゴリズムなら、まさに、中国の明代の随筆集「菜根譚」の一節のような事が起きるのである。
「本当の美味は、濃い味や変った味ではなく、ただ淡い味の中に有るように、真に優れた人間は、特別な才能を持っていたり特別な事が出来る人ではなく、ただただ常識をわきまえた平凡な人である」
そして、その事は、どんなに頭が良くても、自分を特別な人間だと思い、その事に誇りを抱いており、神が居るなら、自分のような特別レアな人間こそ神に選ばれるべき者だと思っている悪役には思い至る事が出来ない。

しかし……である。
山本弘氏は、古い世代のオタクであった。
オタクが「世間から注目されないものでも、何ならオタク仲間からさえ評価が低いものでも、自分が好きなものは好きだと堂々と言う」ような人達だった世代のオタクだった。
そして、小説家という「平凡」では無い生き方を選んだ人だった。
「と学会」の初代会長として、他人からすれば何の価値もない「トンデモ本」にだって面白さや笑いを見出せる、その事を提示してきた人だった。
では、果たして、そのような人に「神が居て、誰かを救うのなら、救われるのは、ただただ平凡な人だ」というオチを書けただろうか?
もう、山本弘氏にこの点を確かめる手段は無い。
だが、事実としてあるのは、山本弘氏が、この小説の中で肯定したのは、平凡な人も、非凡・異常な人も、オタクも非オタクも居る、この多様な人間社会そのものだった。
神が居て誰かを救うなら……その考えそのものを否定したのだ。救われるのが、平凡な人間であろうと、レアな人間であろうと。神が居て、誰かを救うなら、善も悪も、平凡も非凡・異常も、オタクも非オタクも、全てを救え、と。

自分も小説投稿サイトに小説を投稿してたりするんで、そりゃ、面白いギミックを思い付いたり、何か面白い技術が現実に有れば、それを自分の小説の中で使ってみたくはなる。
小説のジャンルが、SFやファンタジーやホラーなら猶の事だ。
でも……ひょっとしたら……どんなに魅力的で話を面白く出来そうなアイデアやギミックであっても……その作品で自分が本当に伝えたいメッセージや思想と決定的に相性が悪い……そんな事も有るのでは無かろ〜か?

ただ、一応は、大学生〜大学院生時代に遺伝的アルゴリズムをやってた同僚が居たような研究室に居た身であり、かつ一応はSF好きとしては、「神は沈黙せず」という小説に関して……これだけは批判せざるを得ない。
山本弘氏が「神は沈黙せず」を書いた時点での遺伝的アルゴリズムに関する知識は、ほぼ、確実に一般人(非専門家)向けの書籍からのみ得たものであり、しかも、「サイエンスとエンジニアリング・テクノロジーは関連した分野だが、それでも断絶が有る」にも関わらず、エンジニアリング・テクノロジーに関するモノをサイエンスとして解釈する、という重大な誤読をやってしまっている。
小説としての出来はともかく、あの作品をハードSFとだけは称して欲しくない。「神は沈黙せず」をハードSFと呼ぶのは、喩えるなら、作者が明らかに舞台になっている時代・地域に関する一般向け書籍を「誤読」した結果書かれた歴史小説・時代小説を「ちゃんと歴史考証・時代考証をやっている」と評するようなものだ。
くどいようだが、作品としての出来はともかく、である。

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